ストレンジャー・シングス──いま、ここだけの小説【大前粟生×大滝瓶太】

大前粟生と大滝瓶太による創作と批評のコラボレーション企画。「物語」、「書く」、「読む」、そして「コンテンツ」──新しい想像力とエクリチュールの作品。

『あしあと』 大前粟生

 家でひとつだけなにでこすってもこすっても消えないあしあとがあって、それは私のでも娘のでも娘婿のものでもなかった。
「ほら、これ」とみんなを集めてあしあとをかこんで指さしたとき、私は8歳だったから、ひょっとしてこれは子どもの私にしか見えないものなんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。
「ほんとだ」と夫はいい、「大きい」と娘はいい、「もうこんな時間」と娘婿はいった。
「はい、じゃあもう今日はあそびの時間は終わりね」
 と夫がいうと夫は私のママにもどり、娘は私のパパにもどり、娘婿は介護士のエランさんにもどった。
「おやすみなさああい」とみんなでいう。
 おやすみなさい。
 家にはあんまり会ったことがないけど寝たきりのおじいちゃんがいて、エランさんが住み込みで面倒をみている。
 おじいちゃんと会ったりあいさつをしたりごはんをたべたり笑ったりした回数よりも、エランさんに舌でさくらんぼのヘタを結ぶのを見せてもらったりおままごとをした回数の方がずっと多い。
「あら、おじいちゃんが呼んでる」「ぼくはすぐいきますよー」
 エランさんがおじいちゃんに呼ばれているから、おじいちゃんは生きていて苦しんでいるのだけど、おじいちゃんの部屋からは声も影もしなくて、ときどきほんとはゆうれいなんじゃないの?って思う。
「そっかー、わたしわかったよお」と私は娘にいった。「このあしあとっておじいちゃんのだよ」と私がいうと、パパは「そんなわけないだろ」といった。その言い方はまわりにだれもいないみたいな、ひとりごとみたいな感じで、パパがいったというよりは彼のからだっていう物体から漏れた音みたいな感じだったから、いっそうつめたく、心の奥の芯がぼっと発芽したみたいだったので、ゆうれいだから、と私はつけ加えないでおいた。
「おやすみなさああい」とみんなでいう。
 おやすみなさい。
 私たちがしているあそびにはバリエーションがあって、おままごとはそのひとつなのだけれど、おままごとには私たちの数だけの組み合わせがある。
 ときには私が娘でママが母親でパパが父親、エランさんが介護士さんっていう日もある。
 だからママが夫でパパが娘でエランさんが娘婿になる日はけっこうかなり少ない。どういう圧力がはたらくのか、それが家族とか、関係ってことなのか、ママが夫でパパが娘でエランさんが娘婿のときにしか私たちはあしあとのことを話さない。その家族だけが知っていることなのだ。
 あしあとはむらさき色をしている。それもいち様なむらさきではなくて、陽がしずむまえの空と陽がのぼるまえの空をずらして重ね合わせたような、暗く波打つ光のむらさきの色をしている。その空を上から踏んずけてフローリングに固めたあしあとだ。それが二階につづく階段の29段目に貼りついている。だから私たちがそれを見るとき、めいめいが背の高さに合わせて階段に立ったり座ったり、脚を伸ばしたりしていて、下から見ると私たちはバンドマンのアー写みたいじゃない!と夫がいった。「え?」と娘がいう。「かっこいい」と娘婿がいう。「アーシャってなにアーシャってなに。インドの神さま?」と私がいう。
「アーティスト写真。パパも昔バンドやってたんだよ」娘が、自分のことをパパっていったからそれで今日のおままごとは終了した。
「わ。おれもっすよ」とエランさんがいう。エランさんは陽気になると自分のことをおれと呼ぶ。
「へえ。なにを」
「ドラムです」
「僕もだ。ちょうどこの国に越してくるときに処分したんだけどさ」
「おれんちにありますよ。いくつか。よかったら今度きます?」
「リッチだねえ」
 パパがそういうとエランさんは自転車を漕いでいるときに虫がぶつかったような顔をした。エランさんがリッチなのはパパとママがお金を払っているからだ。住み込みの介護はとても高くて、そのうちもうエランくんにきてもらえなくなるねえ、さびしいけど、職場にはいってあるから、親の介護に専念しないといけなくなるかもしれないから、長期的なプロジェクトはなるべく振らないでほしいって、と、夜中、ママとパパが話し合うくぐもった声が彼女たちの寝室から二階にある私の部屋にまで階段をとんとんのぼって伸びてきた。
 その話から一か月半くらいたったとき、おじいちゃんがなくなった。おじいちゃんの意志だった。おじいちゃんはまだ眼球だけは動かせていて、眼球が動かせるうちに、ベッド脇にある文字盤で、こきゅうきをはずして、と、大事なひと全員に示したのだ。パパとママとエランさんと私とママの妹ふたりとパパの兄とお医者さんに。みんなが別々にきたとき、集まったときに何回も。
 もともとおじいちゃんは、なおらない病気が本格化する前に、本格化したらひと思いに死なせてほしい、おまえらに迷惑かけたあないわ、と口癖のようにいっていた。でも、本格化したその瞬間、なにか得体のしれない大きなものがおじいちゃんのからだをいままで以上に操って、表面だけじゃなくて芯も支配しようとしはじめたその瞬間、おじいちゃんは生きたいとからだで訴え、ママがおじいちゃんに呼吸器をつけることを決意したのだ。私は8歳だった。それはもうずっと前のことで、別の自分をながめるみたいに思い出を切り分けて再生することができる。あのころ、エランさんが住み込んでいた時期のたのしい思い出。ママとパパが怒鳴り合い、おじいちゃんに怒鳴り、エランさんに介護のことできつくあたっていたつらい思い出。
 おじいちゃんは、私たちは、もっと早くにおじいちゃんを死なせてあげた方がしあわせだったのかな。ふしあわせだったのかな。どんな時間をへてどのようにおじいちゃんが死んでも、おじいちゃんも私たちもよろこびを感じて悲しみを感じた。そのごちゃごちゃを給食みたいに噛みくだいてのみこんでいくしかない。ゆっくり時間をかけて、昼休みのさいごまでのこって給食をたべつづけるのはつらくて孤独なことだけれど。
「ちょっときて」とママがいった。「おじいちゃんがいいたいことがあるから」
 ひさしぶりに見るおじいちゃんはゆうれいなんかじゃなかった。ガリガリで、いびつで、もう死にそうで、生きていた。「おじいちゃん」と私がいうとおじいちゃんはまばたきして、時間をかけてひらいた。おじいちゃんの眼球がかすかに動くのに合わせてママが、おじいちゃんが呼吸器を外したいのだということを私に、おじいちゃんが示したことばどおりにいう。それから「あんたにもなっとくしてもらいたいって」といった。
「おじいちゃんが決めたことなんでしょ? だったら、私はそれでいい」
 こんなことを私はいって、これはとげとげしくてママやパパやおじいちゃんやエランさんを傷つけることばだったかもしれなかった。
 おやすみなさい、と私たちはおじいちゃんにいうことができた。
 しばらく経って、自宅介護のおもかげが家から消えて、私の誕生日がきた。私たちは私の誕生日パーティを開いた。エランさんもきてくれて、エランさんは恋人を連れてきた。
「ぼくたち、こどもをそだてようかと思っていて」
 そう聞いた瞬間、私はふたりの子どもがあのあしあとに手のひらを重ねていて、私たちがそれを見ている未来を想像して、三年後にそうした。
「プレゼントがあるんだ。」
 エランさんは私に簡易のドラムセットをくれた。私はそれを今でも持っていて、もうほとんど鳴らさないけれど、もらったその日、リビングでみんなに動画を撮られながら叩いた。
 ドン、ペェン、ズンズン、ピリン、チャカ、ズツェズツェ

 

『いま、ここだけの小説──大前粟生評』 大滝瓶太

 2018年6月、作家・大前粟生にとって初となる単行本『回転草』が書肆侃侃房から刊行された。

 表題作は同社による文学ムック『たべるのがおそい vol.2』に収録された作品であり、この作家の核たる想像力に触れるにあたって入門的な短編になっている。実在の作家やハリウッド映画のタイトルがユーモラスに引用されながらも、かれによって描かれる世界はぼくらの知っている世界とは「すこし」遠い。これからぼくが書くのは、この「すこし」についてだ。

 大前粟生は2016年に『GRANTA JAPAN with 早稲田文学』による公募プロジェクトで『彼女をバスタブにいれて燃やす』が最優秀作に選出されたことで小説家としてのキャリアをスタートさせた。同年6月には『ユキの異常な体質 または僕はどれほどお金がほしいか』で第2回ブックショートアワード大賞を受賞し、翌年に監督・塩出太志、主演・鳥居みゆきで映画化され、その他にも上述の『たべるのがおそい』や電子書籍レーベル・惑星と口笛ブックスにて短編集『のけものどもの』を発表するなど精力的に創作活動を展開している。まだまだ広く知られているとはいいがたい「これからの作家」ではあるが、日本文学の潮流にない想像力を駆使した短編は一部で高い評価を得ている。
 そもそも大前粟生という作家を知ったのは、共通の友人だったとある小説家からの紹介だった。
「おもしろい子がいる」
 という風にすすめられて読んだのがデビュー作『彼女をバスタブにいれて燃やす』であり、終始幻覚的な描写で埋め尽くされて「かたち」が定かではないが、しかしたしかに「構築物」と呼べる質感に素直なおどろきをおぼえた。他の作品を読んでみてもこの奇妙な質感があって、しかしさらに奇妙なことに、この「奇妙さ」は読書の最中でしか姿を現してはくれず、その物語はかんたんに共感などさせてくれやしない。
 大前の作品では人物の姿が像を結ばない。
 あるいは過剰に人間から遠いすがたを与えられているケースが多く見られる。性別や種族の差異が小説世界のなかで意味として扱われず、このフラットな価値観がぼくらが疑ってこなかった認識への再認を要請する。
 UNLEASHへの書き下ろし小説『あしあと』では8歳の「私」と両親、介護士のエランさんという青年(?)がおこなう「おままごと」により、あたかも度のあっていない眼鏡でみるように登場人物たちのありかたがぼやけている。
 その「ぼやけ」はもちろん「私」という語りの眼鏡をとおして知覚されるものであるが、現実と虚構がフラットに配置された認識により構築された世界は「私」にとって真実でしかありえない。そして唯一「おままごと」の外にいる「おじいちゃん」だけがこの小説のなかでたしかな輪郭を持ち合わせている。ほんの「すこし」の距離のちがいが、世界の大きな分断にもなっているようにかんじられる。
 しかし、こうして描かれる像の輪郭の濃淡のミスマッチは来るべき「死」に文学的な意味など与えはしない。死が過ぎ去り、奇妙さが排除された世界では、ぼやけた生が淡々と死なんてものよりも残酷な平凡さで続くだけだ。ただ、それはあらたな奇妙さとなって自己生殖的に死に、そしてまた生まれる。そんなわずかな気配が、ぼくらの認識に不気味なあしあとを穿つ。
 大前粟生の作品群はこの奇妙さの輪廻転生の渦中にぼくら読者を投げ出す。そして感情の琴線に、この世ならざる知らない角度から触れてくる──

 

『ストレンジャー・シングス』 大前粟生

 家でひとつだけなにでこすってもこすっても消えないあしあとがあって、それは私のでも娘のでも娘婿のものでもなかった。
「ほら、これ」とみんなを集めてあしあとをかこんで指さしたとき、私は8歳だったから、ひょっとしてこれは子どもの私にしか見えないものなんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。
 ルカがそういったのはNetflixのSFホラードラマ『ストレンジャー・シングス』を見ているときだった。
 似たような家々と通りが繰り返し並ぶ80年代のアメリカ郊外が舞台で、そことそっくりの土地に暮らす私たちは暇でNetflix漬けの生活を送っていて、トーキング・ヘッズやジョイ・ディヴィジョンを爆音で鳴らし、「なに読んでんの?」「カートヴォネガット」と80年代郊外のアメリカに住む中高生のふりをしては、画面のなかの景色と私たちが見ている景色がごっちゃになって私たちにもドラマみたいななにかわくわくしたことが起きないかなあ、と漠然と思っていた。
『ストレンジャー・シングス』や『IT』や『イット・フォローズ』や『ドント・ブリーズ』や『僕らと、僕らの闇』や『聖なる鹿殺し』や『20センチュリー・ウーマン』……私たちが住んでいる町とそっくりな場所がここ数年、青春やなにか不穏なことが起こりそうな土地として色鮮やかに、倦怠と性と成長と抑圧と恐怖の舞台として描かれるたびに私たちは嫉妬したものだ。
「ちっくしょうめがー」と私たちはいった。「私たちの生活はなんでこんなに退屈なんですか!」と私たちは、映画館から出ると、あるいはアプリを切るとそういったものだ。
「クサレオメコが」くすくす。クサレオメコというのは最近覚えたスラングだ。私たちのひとりは読書家で、最近読んだファン・ジョンウンの『野蛮なアリスさん』にクサレオメコという言葉が頻出した。
「ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』みたいにならねえかな」と読書家の私たちはいった。それは『図書館』というテレビドラマと現実が電話ボックスによって接続される超おもしろい小説だった。読書家の私たちがそうぼやく隣では別の私たちが『ウエストワールド』と『HiGH & LOW』と『宇宙よりも遠い場所』の話をし、そのうしろでは別の私たちがコーチェラでのビヨンセのパフォーマンスの話をしていた。私たちはそのビヨンセを見て服部真里子の短歌を思い出したんだ。

 野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた

 広野へと降りて私もまた広野滑走路には風が止まない

 キング・オブ・キングス 死への歩みでも踵から金の砂をこぼして

 服部真里子の短歌やビヨンセやEXILEや『バーフバリ』のことを考えるとき、私たちは自分自身の支配者はほかならぬ自分自身だと思うことができた。私たちには尊厳があって、そのことを思い起こさせてくれる。私たちには私たちを励ましてくれるコンテンツがたくさんあった。私たちは私たちの生活や知人や将来の話をするよりも、コンテンツの話をする方がずっと楽しく、誇らしかったが、私たちがそれで完全に満たされるわけではなかった。私たちの体の3分の2はコンテンツでできていたが、あとの3分の1は3分の2よりも大きい3分の1だった。画面や本の外にある、私たちの生活だった。ただ退屈なだけのそれをなるべく見ないようにしていた。
 私は8歳だった。それはもうずっと前のことで、別の自分をながめるみたいに思い出を切り分けて再生することができる。あのころ、エランさんが住み込んでいた時期のたのしい思い出。ママとパパが怒鳴り合い、おじいちゃんに怒鳴り、エランさんに介護のことできつくあたっていたつらい思い出。
 ルカは自分自身の身に起きた話をずっと喋っていた。それはもう生活というよりは思い出で、思い出というよりは物語だった。問題はない。私たちの『ストレンジャー・シングス』は3週目だったから、別にだれかが喋り通しでも。ちょうどルーカスの妹のエリカがシーズン2ではじめて登場する場面だった。「この子、本当にナイスだよね。いじが悪くて」そうなのだ。この時期、私たちはいじが悪い女の子のことが大好きだった。まるで私たちを支配しようとしてくる社会や習慣から、いじが悪い女の子は逃れることができているように思えた。私たちは一時停止し、画面のなかのエリカといっしょに自撮りした。
 カシェ、というシャッター音が終わったとき、ドラムの音がした。
 ドン、ペェン、ズンズン、ピリン、チャカ、ズツェズツェ
 私たちはじっと待ったが、ルカはそれ以上話さなかった。
「え?」と私たちはいった。「で? 続きは?」
「これで終わりだよ」とルカはいった。
「あしあとは? 家でひとつだけなにでこすってもこすっても消えないあしあと、とは、いったい、なんだったの、ルカさん?」
「さあ。異次元への扉とか」とルカがさも適当そうにいった。『ストレンジャー・シングス』がそういう話だったからだ。イレブンと呼ばれる少女がある日、異次元への”ゲート”を開いてしまい、町は不穏に包まれていく。
 異次元からやってきたデモゴルゴンという、主人公の少年たちが『ダンジョンズ&ドラゴンズ』から引用した名前を持つ未知の怪物によって誘拐されたウィルを助けるためにスピルバーグ的でスティーブン・キング的な冒険がはじまって、ウィルが救出されて”ゲート”が閉じられるまでがシーズン2までのざっとした展開で、私たちは『ストレンジャー・シングス』のシーズン3を本当に楽しみにしているっ!
「さあって」
「でもいいじゃん。あしあとが異次元への扉。それっぽいそれっぽい」
「その家ってどこにあるの? ここからいける距離? いってみようよ。あ! 線路の上を通ってったら青春っぽいね」
「私たちのひとりが異次元に紛れ込んじゃうんだ」
「むらさき色のあしあとはメッセージ」
「私たちがあしあとのことに気づくまでにはしばらくかかる。よね?」
「私たちの体の3分の2はコンテンツでできていたが、あとの3分の1は3分の2よりも大きい3分の1だった。画面や本の外にある、私たちの生活だった。ただ退屈なだけのそれをなるべく見ないようにしていた。あの日までは」
「なんてことない日だった。みんなでこの家で『ダンジョンズ&ドラゴンズ』をして、帰るようにいわれている時間から40分遅れてそれぞれの家に帰った」
「その帰り道、私たちのひとりが失踪する。だれにする?」
「はーいっ」
 手を挙げたのはエリカだったので、エリカが失踪したことになった。
 エリカは、自分が紛れ込んでしまったそこが異次元だとは気がつかなかった。そこは私たちがいる、いま、こことそっくり同じような場所で、私たちとそっくり同じような私たちが暮らしていた。
 よく観察すると、エリカの家族や私たちの利き手が逆だったり、いつもルカがよくしている鼻の頭をこする癖を他のだれかがしたりしていた。そういう景色に出くわすたびにエリカは、あれっと思った。まるで遠い昔や未来に見た景色を見ているような変な感じがした。その世界にもNetflixはあったので、エリカの3分の2は満たされていた。
 あるとき、エリカの部屋の天井から音が聞こえた。
「ほら、これ」と聞こえた。「ほんとだ」と聞こえた。「大きい」と聞こえた。「もうこんな時間」と聞こえた。屋根の上に、だれかが集まっているようだった。そんなわけないな、とエリカは思った。夜だった。もうねむろうとベッドの上に仰向けになったとき、右目になにかが落ちてきた。指を突っ込むと、指さきにむらさき色の汁がついていた。
「これ、なに?」とエリカはいった。それを舐めてみた。すると変な味がした。脳みそがぐるぐる回ってジュースになりそうだった。遠い昔や未来に見た景色がエリカの体のなかを駆けめぐっていて、「ちっくしょうめがー」とか「クサレオメコ」とか、頭のなかから聞こえてきた。そんなひどいことばなのに、エリカの両目からは涙が出ていた。片方の涙はむらさき色をしていて、涙が落ちるよりも早く、天井からぴてん、ぴてん、と床までむらさき色の汁が滴っていた。
 上に、なにかあるんだ、とエリカは思った。次の日、私たちに召集をかけた。私たちは肩車を何重にもして、一番上にいるエリカが天井に触れると、むらさき色をしたそこは片栗粉を溶かした水のようなぬめりと弾力とともに、へこんだ。
「ここ、いけるよー」
 エリカはそこに腕をつっこんで、身を乗り出し、上半身、下半身、体ごとそちら側にいってしまった。
 私たちはエリカのあとに続こうとしたが、無理だった。エリカ以外の私たちが天井に触れても、そこはただの硬い天井だった。
 エリカは自分のと同じ家の階段の上にいた。そこにあしあとがあって、エリカのあしとぴったりあった。でも、ちがう家族が住んでいるようだというのが、においでわかった。夜中だった。エリカは足音が出ないようにして家を探索していった。子どもがいた。夫婦がいた。そのどちらにも似ていない男のひとがいた。みんなねむっていた。最後の部屋の扉を目の大きさだけ開けると老人がいた。介護用のものものしいベッドとものものしい器具がある部屋で、老人はねむっていないようだった。ベッドの上に立っていた。エリカに背中を向けていた。変に背が高かった。まくれあがった布団で足元が見えなかった。浮いているのかもしれないと思った。幽霊? ぎぎぃ、ぎぎぃ、と首を曲げて、エリカを見た。
「あ」とエリカはいった。「帰ります」
 エリカは自分がやってきた階段のところにいったが、なにも起きなかった。あしあとにあしをあわせても、階段の上でぴょんぴょん飛び跳ねてもなにも起こらなかった。老人の部屋にいって、「どうしたらいいですか?」と聞いた。「こっちが聞きたいよ」といわれたのが、ちょっとおもしろかった。
 その頃、ルカの話を聞いた私たちは8歳のルカの家が過ごした家に向かっていた。
 家に着く直前に、私たちのひとりが、「あれ? エリカは?」といった。エリカがいなかった。「おーい、エリカッ!」みんなで大きな声でそういうと、8歳のルカの家からエリカが出てきた。
「おじいちゃんが死んじゃった」
 エリカは私たちを抱きしめて、泣いていた。
 その家は空き家だった。エリカがそこから出てきたはずなのに、鍵がかかっていて入れなかった。
「あ。あーっ」とルカがいった。「きょう私誕生日だった」
「おめでとぉぉう」
 おめでとう。
「そうだ。ドラムドラム。昔みたいにやってよ」
「ドン、ペェン、ズンズン、ピリン、チャカ、ズツェズツェ」
 ルカがそういうと、私たちは8歳のエリカといまのルカが、ぜんぶのルカが家のなかでドラムを叩いているところを想像した。

 

小説:大前粟生
92年生まれ。小説家。著書に『のけものどもの』(惑星と口笛ブックス)、『回転草』(書肆侃侃房)。Twitter: @okomekureyon

批評:大滝瓶太
書評家・コラムニスト「まちゃひこ」による創作企画。著書に『コロニアルタイム』(惑星と口笛ブックス)。ブログ『カプリスのかたちをしたアラベスク』。Twitter: @macha_hiko

ゲストライター

この記事は「UNLEASH」のゲストライターの方に寄稿いただきました。

『UNLEASH(アンリーシュ)』は、ビジネス、カルチャー、デザイン、テクノロジーの話題を発信するオンラインメディアです。