わたしたちの性別は外部により「与えられる」のか?──男らしさ、女らしさの解体に向かう幼児用衣類メーカー

幼児用製品のマーケットではジェンダーフリー思想が広がりを見せている。玩具からは性別ラベルが取り払われ、性別のステレオタイプの解体を目指すアパレルブランドも登場した。

折りたたまれた足の後ろに隠れたそれを見つけたのは予定日の1ヶ月前で、それまでかれを消極的理由から女の子だとおもっていたぼくら夫婦はこのとき「不在の証明」のむずかしさを思い知った。

「現実に穿たれた穴それじたいは、みずからが穴であることを証明できない」

ふと思い出したこんなくだらない話をしたのは学生時代の悪友K以外にありえない。そしてこういう話題になるのは深夜2時以降の酔いに酔った宵が深まる頃合いに決まっていて、つまり信頼性を無批判に肯定するわけにはいかない。文学研究科に進学し、博士号を取得したKは任期付きの大学の職を得て機嫌よく働いていて、いまもこんな話を学生相手にしているのは想像に難くない。かれの話は往々にして実生活を営むうえで役に立つことはないけれど、ぼくにとってかなり重要である事実は否定できない。かれのたわごとを、あるいは「必要を超えた知」を、ぼくはなによりも肯定したい。そんなかれも最近ながく付き合った彼女と結婚した。
ぼくらに子どもが生まれるとわかったとき、世の夫婦の大多数がそうするように生まれてくる子どもの「性別」についての話をした。女の子だったら女の子らしい名前をつけたいとか、親戚の子どものサイズアウトした服の調達とかそういう他愛のないことに終始したのだが、肝心の性別がなかなか確定しないことでぼくらの考えは自然とそこから離れていった。生物学的な性別という絶対性について──これをどの程度、ぼくらは信頼すべきなのだろうか。
そうした日々のあいだにもぼくら夫婦はテレビやネットから大量の情報を浴びていった。LGBTや女性の社会進出、「男らしさ」や「女らしさ」についてのイメージ。それらが提起する問題の根っこにあるのはいつもふたつの認識の差異だ。そこには「生物学的な性別」と「実存的な意味での性別」が対をなして存在している。妻のお腹のなかにいるぼくらの子どもの性別は自然科学的にはもうとうに決まっているはずの時期であっても、それが確認されないままでは「実存的な意味での性別」は宙吊りの状態だ。ある種のシュレディンガーの猫のように、どこかからこの世にやってきた我が子が何者であるかはひとまず人生を生きてみるまでわからない。

この不確定さに対してぼくらがおこなったひとつの選択が「名前」だった。じぶんの名前の由来について、おそらく小学生になったあたりで考えなければならない日がやってくる。いつかやってくる終わりの見えない思考にそなえ、ぼくらは息子を「XY」名付けた──ふたつの染色体を重ね合わせた、ユニセックスな名前だ。

性別のステレオタイプと市場の動き

ぼくに「男らしく」育って欲しいと考えた両親は、少なくとも義務教育中はスポーツをさせるという教育方針を掲げていた。小学校1年生のときにサッカー教室に入ったのだがこれがすこぶる不向きで一週間で辞めてしまうと、以降小学4年生まではぼくの気が向くのを辛抱強く待っていたらしい。
それからは中学3年生まで野球をしたのだが、それなりに真面目に練習したとはいえついぞレギュラーにはなれなかった。特に中学の野球部は県内でもそれなりの強豪で、毎日放課後は20時まで練習があり、休みも盆と正月だけという典型的な「厳しい部活」だったのだが、そのなかで「男たる根性」というものが養われたかどうかは定かではない。
スポーツ、特に野球はぼくが10代だった当時、「男」というイメージが強かった。いまでこそ女子プロ野球がメディアでもフォーカスされるようになってはきたが、長い時間を共有されていたイメージの解体はたやすいものではない。スポーツだけではない。電車や飛行機といったおもちゃ、ピンクや赤といった色、さらには数学や物理や文学といった学問についても性別イメージがつきまとっているのが現状で、自身の認識と同等かそれ以上に、性別は外的要因によって無意識的な領域で共有されていることもある。
ただ、近年になって過度な性別の押し付けが少なくなってきた事例もある。幼児向け玩具の市場に目を向けると、ラベルから対象性別の記述がなくなってきているという。

TTPM.comをはじめとする複数の幼児用玩具メディアで編集主任を務めるJim Silver氏は、
「メーカーはかつてのような性別によるステレオタイプを捨てました」
と語っているが、同時に、
「ただ、それは究極的にはマーケット拡大の意味合いで行われている。片方の性別をターゲットにするより、両方の性別をターゲットにした方が売り上げはあがりますから」
とも述べている。この市場の動きは実存的な意味での「性別意識の改革」ではないものの、しかしぼくらが──ぼくらの子どもたちが──無意識的に晒される外的な性別意識はかつてよりも構造的に遠ざけられることには変わりない。ビジネスにおける「利益最大化」という至上のミッションと個人の性別認識の問題が合流する一例として特筆すべきことだろう。

(参考:http://adage.com/article/cmo-strategy/marketing-parents-theybies/312990/

妻は、

勤務先の査定について怒りをあらわにした。
仕事で成果を残し表彰も受けたが、査定対象期間と産休が1ヶ月被っていたため最低評価だった。一方で「たいした仕事をいていない男性社員」が彼女よりも高い評価だったという。XYは絵本を読んでいた。
「生物学的に女性であるということで、無条件にお前は無能だといわれたみたいな気分」
ほとんどの絵本に出てくるのは子どもとお母さんで、お父さんはたまに子どもをお風呂に入れる。

幼児用衣類メーカーのマーケット戦略

Handsome in Pinkというアパレルブランドがアメリカにある。
ピンクと紫を中心とした色を使い、飛行機や電車やスポーツをテーマとしたデザインを取り入れた幼児用衣服を手がけていて、「性別とステレオタイプ」に対するアプローチを理念として掲げている。

同ブランドでは、
「注目すべきは我々が抱いている性別に関するステレオタイプの自覚だ」という問題意識を持っている。

「男の子だから、女の子だからといって、そうしたステレオタイプを持ちうる色やデザインの衣服を与えることが、どれだけ危険であるかを自覚しないといけない」

「女性的なイメージ」が強いピンク地のTシャツに飛行機やロケットといった「男性的なイメージ」のデザインを施すことで、Handsome in Pinkは性別イメージをキャンセルすることにより「ユニセックス」な製品を作り出した。このコンセプチュアルな製品の販売のため、同ブランドではFacebookをはじめとするSNS広告を積極的に利用しているという。
単に「自社製品の販売」を意図したものでなく、社会的なメッセージとブランドの思想を提示することで人々の心へと訴えかけた広告は多数シェアされている。

(参考:http://adage.com/article/cmo-strategy/marketing-parents-theybies/312990/

2歳になった、

XYは急にことばをはっきりとしゃべり出すようになった。それまでもしゃべってはいたのだがうまく舌が回らないといったような様子だったので、自分の知っていることばと身体的な能力とのあいだに差異があったのだろう。XYはじぶんのことを「XY」と呼ぶ。「XY、パン食べたい!」「XY、ハンバーグ食べたい!」「XY、歯磨き上手かなする!」ことばを発すれば発するほど、行動はより能動的になっていった。
最近になると、XYはその日着る服をじぶんで選ぶ。それまでは親であるぼくらが選んでいて、持ち合わせの服のなかにはいとこのお姉ちゃんのおさがりもいくつかあった。赤やピンク、水玉模様なども含む衣服を、XYは差し出されるがままに身につけ、いつもご機嫌に笑っていた。しかしじぶんで選ぶようになってからは「好み」が生まれたようで、最近では青い服を好んで着る。今日XYが選んだ服は青地に白い魚がたくさん泳いでいるTシャツだ。こうした日常をおそらく数年後の小学校の教室でXYは思い出さない。

「現実に穿たれた穴それじたいは、みずからが穴であることを証明できない」

保育所にXYを送り届けたあと、ぼくはKのことばをまたしても思い出す。性別とは先天的に与えられるものなのか、自覚的に獲得されるものなのか、それとも社会や大人にとって「与えられてしまう」ものなのか。いわばぼくら親は、我が子の現実に穿たれた性別という穴の不明瞭な縁に立っている。ぼくと妻はいまその穴を覗き込んでいて、その一筋のまなざしが蜘蛛の糸のように頼りなく、その穴の下へ、下へ、ゆっくりと降りてゆく。

Img : Handsome in Pink

まちゃひこ
まちゃひこ

文芸作品やアニメのレビューを中心に行うフリーライター。文系一直線かとよく勘違いされるが、実は大学院で物理とかを研究していた理系。その他にも創作プロジェクト「大滝瓶太」を主宰し、小説の創作や翻訳を行っている。電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より短篇集『コロニアルタイム』を2017年に発表。

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