#MeToo された著者の作品は最低最悪なの?──ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』

ジュノ・ディアスの短編集『こうしてお前は彼女にフラれる』についての書評。「最低最悪な」性的虐待を告発された著者の作品は社会から排除されるべきなんだろうか?

おれは悪い奴じゃない。こういうとどう聞こえるかはわかっている──言い訳がましいし、恥知らずだ──でも本当なんだよ。

ジュノ・ディアス、「太陽と月と星々」、『こうしてお前は彼女にフラれる(都甲幸治、久保尚美 訳)』

幼い頃、世界には正義の味方と悪い敵しかいなかった。悪い奴がみんなを欺き、「ズルい」やり方で正義の味方を追い込む。だが、そこに正義の仲間たちが来て一発逆転。悪は滅ぶ。それがこの世の全てだと思っていた。けれど、二十数年に渡ってなんとか人生をこなしてみた結果、世界はそんなに単純じゃないということを身を以て知った。つまり、誰もが何かを愛し慈しむ優しい心と何かを憎み出しぬこうとするズルい心を持っていて、時と場合によって「良い人」にも「悪い人」にもなりうるっていうことを。すると私は、ある面では「最低最悪の嫌な奴」にも多少の共感ができるようになっていった。

そんな、つい共感しちゃう「最低最悪の浮気男(嫌な奴)」が、Junot Diaz(ジュノ・ディアス)による短編集『こうしてお前は彼女にフラれる(原題:This Is How You Lose Her)』では描かれている。
作品への言及の前に、まずは作者であるジュノ・ディアスについて。ピュリツァー賞受賞作の『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』で知られる彼は、1968年の大晦日にドミニカ共和国で生まれた。6歳の時に、家族でアメリカに移民。その後、父親は失踪し、兄は白血病を患い、貧困の中で生き抜いた苦労人だ。しかし、1996年に処女短編集『ハイウェイとゴミ溜め』でデビューすると移民や貧困、人種差別など、根の深い陰鬱な話題を、スペイン語混じりのリズミカルかつコミカルな文体で描くことで、瞬く間に文壇のトップに躍り出た。ピュリツァー賞選考委員長にも選ばれ、今や彼はアメリカ現代文学を代表する小説家と言えよう。

けれど、今年5月、ある事件が起こった、いや、明らかになった。彼は、#MeTooによって女学生に対する一方的な性的虐待行為や彼のミソジニー的な作風に嫌悪感を示した女性に対する不誠実な対応を告発されたのだ。そして、ピュリツァー賞選考委員長という座から退いた。

#MeTooから逃げる身体

#MeTooの動きが急速に広がる中、私はつい冷めた目でそれを眺めてしまう。もちろん、勇気を出してセクハラや性犯罪の被害を告発した方、あるいは社会を変えようと活動している方たちの行動は素晴らしいと思う。しかし、#MeTooに対する熱を私から奪うのは、それらに対する大衆の反応だ。
「責任をとれ」「謝罪しろ」「どうしてクビにならないんだ」「被害者だって悪いじゃないか」
TVでも、ネットでも、加害者をどう罰するか、あるいは被害者の責任の如何についての話ばかり。誰かを責めて、加害者あるいは被害者を「諸悪の根源」と決めつけて、社会から徹底的に排除することで問題を終わらせようとする。そんなん、何も変わらんやん。
私は絶望し、ホームボタン、あるいはリモコンの電源スイッチを押して逃げる。自分自身、そして家族にも降りかかりうる問題から目をそらす。

しかし、氷点下まで冷えきった私の心は、ある事件で一気に昇華した。それが写真家、荒木経惟(アラーキー)のミューズだったモデル、KaoRiさんによる#MeTooだった。

立場の上下なく、お互いがお互いに尊重しあって発展する世の中になりますように。

KaoRi、『その知識、本当に正しいですか?』

約9000字にわたる彼女の文章の、一番最後に書かれたこの言葉。この一文に込められた切実な思いによって、私の体の奥底から失われたはずの熱が沸々と湧き出してきた。
「変えたい。何かを。何より、変わりたい」
「でも、どうやって?」
しかし、私はその答えを持ち合わせていない。

最低の、クソ野郎。だけど嫌いになれない。

物語の主人公であるユニオールは、幼い頃、祖国、ドミニカを捨ててアメリカに移民した。その後、彼の父親も愛人とともに家族を置いて出ていき、兄であるラファエル(ラファ)も若くしてガンを患って死ぬ。
つまり、ユニオールが少年期から青年期にかけて辿った道は作者であるジュノ・ディアスのそれに限りなく近い。そして、奇しくも今回の#MeTooによって稀代の浮気者として女性を軽視するユニオールの姿がジュノ・ディアス自身に重なりはじめる。

大人になったユニオールは、全編を通し、恋人が傷つくとわかった上で(世間はこれを悪意と呼ぶ)、浮気をする(罪を犯す)。誰かをうまく愛せない。愛したと思った先から他の女の子を抱いてしまう。そして、終始、自己憐憫している。
彼はあまりにもぞんざいに女性を扱っている。例えば、自分の元カノ(黒人)が彼の子供を妊娠したと言ったとき。

ハーバード大学に来て妊娠するなんて有色人のクソ女だけだ。白人女はそんなことしない。アジア系の女はそんなことしない。黒人とラテン系の女だけだ。何でわざわざがんばってハーバード大学に入ったあげく孕ませられてんだ? そんなこと自分の町内にずっといたってできるだろ。

ジュノ・ディアス、「浮気者のための恋愛入門」、『こうしてお前は彼女にフラれる(都甲幸治、久保尚美 訳)』

私の眉間はつい真ん中に寄る。最低だ。クソ野郎。
しかし、この短編集を読み終えて、私はユニオールのことを嫌いなれない。

彼は祖国を失い、父親を失い、兄を喪った。母は兄ばかり愛し、彼には目もくれない。信頼できるはずの女教師も兄の代わりに彼を抱く。
彼は、彼を愛するべき人々を場所をことごとく失って生きてきたのだ。

ユニオールの不誠実は瞬発的なものではない。浮気をするその瞬間に起こる彼の情動の爆発は、紐のついた爆弾が引き起こしたものだ。そして、その紐の火は、爆発のはるか前に着けられている。
物語の中で彼の気持ちを理解する人は出てこない。一方、彼にとっても誰もが宇宙人のようで、恋人に対してすら、表面的に共感してはいても彼女たちを本当に理解することができない。
火はジリジリと紐を燃やし尽くしていく。彼はその火を消そうともがく。逃げたり嘆いたりする。ゴッホよろしく炎に手を突っ込んでみさえする。しかし、彼は炎だと信じていたものが女の服だということに気づく。そうなると彼の体はもう止まらない。我に返った時には、裸の女が彼に寄り添っている。彼は白濁した燃えかすの中、手のひらで顔を覆う。
そして、日記や手紙、電子メール。彼や女たちの書いた文字から浮気がバレる。しばし反省。自己憐憫。しかし、彼は「結局(父の、兄の、ドミニカ人の)血からは逃れられないもんだね」。と言ってはまた繰り返す。

そんなユニオールの運命に対する憐れみ、そして、力強い生の営みと儚い人間関係によって織り出された小説それ自体の美しさを前に私は彼の存在を否定できなくなる。
作者が性犯罪を犯していたとしても、主人公が作者を存分に反映した最低野郎であっても、言葉の連なりの美しさやユニオールが見た情景の鮮やかさは無視することができない。

罪のある身体が切り取る美しき世界

ジュノ・ディアスやアラーキーと同様に素晴らしい芸術作品を生み出した人のごく一部が、これまでの#MeTooによって最低の性犯罪野郎であることが明らかにされた。被害者が声を上げやすい社会、それ自体は良いことだ。しかし、#MeTooに共感する人の中には、その人の作品を、見ない、買わない、評価しない、と宣言する人もいて、ジュノ・ディアスについても、#MeTooを機に、“ミソジニー(女性嫌悪)小説”として彼の作品の評価を再考する人も少なくない。しかし、私はこうした動きをあまり良しとしていない。作者の人格とその作品は、それらが例えどんなに強く結びついたとしても、別個に語られるべきだからだ。

たとえどんなに作者が最低でも、素晴らしい作品は素晴らしいし、作者がどれほど権威を持っていようとも、つまらない作品はつまらない。逆に、どんなに作品が素晴らしかろうと、作者が最低ならば、それは変わらない。ただそれだけだ。

最低最悪なミソジニー小説が無くなって欲しい。私も切にそう願っている。けれどそれは焚書的に不都合な作品を排除するという方法ではなく、社会から弱者が虐げられている構図が淘汰され、差別感情が根底にある作品が自然になくなることで、達成されるべきだ。そして、いつか人々がミソジニー小説をダサい古典として笑い飛ばすようになれば理想的だ。

さらに、「最低最悪の嫌な奴」への共感、つまり、ユニオールの生い立ちに対し、私が感じた憐憫の情は、#MeToo問題を解決するための足がかりになりうる。
もし、ユニオールと同様に誰かが「悪意」を持って「罪を犯す」時、その人自身の人間関係にはなんらかの不和がきたしているとしたら、その罪に対して当事者でない私たちがするべきことは、罪を犯した人、あるいは同様の立場の人が、同じことを繰り返さないためにその不和を取り除くこと、そしてなにより、被害者を被害を受けた過去や加害者から守り、寄り添うことだ。罪の代償は、当事者同士や司法が決めれば良い。

これ以上の#MeTooを生み出さないために、とにかく今、私ができることは、すぐ隣にいる人を慈しみ、理解しようと努めることだ。そんなん、2000年以上前にイエス・キリストって人も言っているのだけど、少なくとも私は現実を見つめるだけではそれを理解できなかった。
#MeTooから逃げ惑っていた私は、KaoRiさんの言葉に捕らえられ、そして、彼女の言葉が落とす影としてユニオールに出会った。そして、彼の存在を介することで、ぐちゃぐちゃの混沌からきらりと輝く一筋の光を見出したような気がする。その光は本当にかすかで、微風でも吹き飛ばされてしまいそうだ。
スマホの画面から発される強烈なブルーライトの中で、それを見失わぬよう私は眉根に力を込める。そして、ほとんど祈るような気持ちで青い鳥のアイコンを押した。

林琴奈

1992年生まれ、京都大学院で地質学を専攻。在学中に結婚・妊娠・出産を経験。趣味は読書、Instagram、ラップバトル鑑賞。関心領域は、自然科学・テクノロジー・教育。