なぜ星野源は「意味」を超えようとするのか?作詞の世界観を探る

なぜ星野源はこれほどまでに人気を博しているのか。その楽曲の世界観からは、日本社会の無意識が見えてくる。

何故、星野源がこれほど人気を博しているのか。それは誰もが一度は思いつく疑問かも知れない。もちろん彼は優れたアーティストだ。役者としての活動も目覚ましい。文筆家としても知られている。しかし、彼がいわゆる大衆受けするアーティストか、と問われれば、答えは必ずしもすぐには出てこない。

何故なら、彼が表現するものは時として難解であるからだ。もっとも、彼はいわゆる「鬼才」といったタイプではないかもしれないし、奇を衒って支離滅裂な表現をしているわけでもない。彼の作る作品には、いつも、ストレートではっきりとしたメッセージが込められている。とはいえ、それは万人受けを期待できるほど分かりやすくはない。

そうした星野の難解さは、彼が書く楽曲において克明に現れる。たとえば、2016年に社会現象にまでなった「恋」もそうだ。誰にでも覚えられる印象的な曲調なのに、その詞をよく読んでみると、不可解であったり難解であったりする。そうであるにも関わらず、星野がこれほど世間で支持されているということは、不思議に思わずにはいられない。

これから私たちは、彼の楽曲の世界観に通底するものを読み解いていこうと思う。そこに浮かび上がってくる星野の思想には、私たちの社会が抱く潜在的な無意識が透けて見えてくるのかも知れない。

「意味」に囚われない生き方

星野の楽曲にはしばしば繰り返されるモチーフがある。その一つが「意味」の否定である。

たとえば、2013年に発表された『夢の外へ』では「意味の外へ連れてって/そのわからないを認めて/この世は光/映す鏡だ」という詞が語られている。また、2015年に発表された『時よ』という楽曲でも、「動き出せ/針を回せ/次の君に繋がれ/時よ/僕ら乗せて/続いてく/意味もなく」というフレーズが繰り返される。

これらはいずれも星野のヒットソングに分類される。その詞のなかで、「意味」は一貫してネガティヴなものとして、不必要なものとして、乗り越えられるべきものとして語られている。こうした態度にはどのようなメッセージが込められているのだろうか。

常識的な感覚からすれば、「意味がない」ことはむしろ悪いことである。お前の仕事に意味はない、などと言われたら、誰だって憤慨するだろう。あなたと出会ったことには何の意味もなかった、などと言われたら、もはやそれは人間関係の破綻を予感させる。私たちは自分の人生において何事に関しても意味を追い求めている。意味があることこそが重要であり、意味がないことは苦痛である。

ただし、星野は「お前の人生に意味はない」などと言おうとしているわけではない。そうではなく、むしろ、「意味」ばかりを求め過ぎないこと、「意味」に囚われないこと、仮に「意味」がなかったとしても、それを受け入れることの大切さを訴えているのだ。

「意味」を追い求めない、ということは、『夢の外』で描かれるように、「わからない」を認めるということでもある。またそれは、『時よ』で描かれるように、淡々と時間が進んでいくことを受け入れることでもある。私たちは目まぐるしく移り変わる現実のなかで生きている。現実は時として不条理だし、不可解である。しかし、そうした現実にあえて身を委ねることが、「意味」に囚われないで生きている、ということに他ならない。

しかし、何故「意味」に囚われていてはいけないのだろうか?何故、不条理で不可解な現実にあえて身を委ねなければならないのだろうか?星野がそうした生き方を訴える背景には、一体何があるのだろうか?

挫折を超えるために

星野は2012年にクモ膜下出血を発症し、その後治療のために活動を休止している。一時は生命の危機にまで陥ったが、その後回復し、病院での入院生活を送ることになった。この間、星野は激痛と向かい合いながら日々を送ることになる。

同時期に製作が進められていた『地獄でなぜ悪い』には、当時の星野の心情を伝えるかのような一節が含まれている。「病室/夜が心を/そろそろ蝕む/唸る隣の部屋が/開始の合図だ」などはその典型だ。

同曲には次のような印象的なフレーズもある。「幾千もの/幾千もの/星のような/雲のような/どこまでもが/いつの間にか/音を立てて/崩れる様」。ここにも彼が置かれた現実に対する切実な絶望が描かれている。そしてそれは多くの人々にも訪れうる「意味」の崩壊の瞬間でもある。

私たちは自分の人生を様々に意味づけている。自分のしている仕事、恋愛、学業には意味があると思っている。しかし、私たちは簡単にそれらを失ってしまう。病気になるかも知れない。交通事故に遭うかも知れない。大切な人を失くすかも知れない。そんなことは、いつ、どんなときにでも起こりえる。そうして往々にしてそこには何の理由もない。

そうした、自分の人生の「意味」が崩壊するとき、私たちはどのように自分を立て直したらよいのだろうか。挫折による「意味」の喪失から、私たちはどのようにして再生すべきなのだろうか。「地獄でなぜ悪い」はその問いに正面から答えようとするものだ。

そうした観点から眺めるとき、星野の答えは「ただ地獄を進む者が/悲しい記憶に勝つ」という言葉に集約されている。「地獄」とは、たとえば星野が経験したような、病室における闘病生活だろう。それは何の意味もない、ただそこにあるだけの逃れられない現実である。したがって、「地獄を進む者」とは、そうした現実を受け入れる者、現実から決して目背けないものである、といえる。

自分の人生に確固たる「意味」を追い求めている限り、その意味が失われとき、人生そのものまでもが崩壊し、「悲しい記憶」に縛り付けられることになる。自分は、本当だったらこうなるはずだったのに、そうした怨恨に人生を支配されてしまう。しかし、この曲が訴えるのは、そんな「意味」などは最初から「嘘」でしかない、そして「嘘」であって構わない、ということに他ならない。

人生に与えられる「意味」など「嘘」に過ぎない。それは、今の自分が信じる「意味」が唯一絶対ではない、それは別でもありえる、ということだ。だからこそ、「地獄」を受け入れられる者は、その「地獄」に再び「意味」を与えることができる。「意味」に囚われない生き方とは、別の、新しい「意味」を作り出すことができる生き方でもあるのだ。

あなたと共に生きる、という愛

前述の『恋』でも、「意味」という言葉が消極的に現れる。「意味なんか/ないさ暮らしがあるだけ/ただ腹を空かせて/君の元へ帰るんだ」という印象的な一節がそれだ。

この楽曲はある意味で違和感を抱かせる。この曲のテーマになっているのは「夫婦」であるが、そのタイトルは「恋」になっている。しかし、「夫婦」と「恋」はいかにも噛み合わせが悪い。「恋」は恋愛の最初期に起こるものであるのに対して、「夫婦」は、どちらかといえば「恋」の時期を終え、その後の人生を共にする関係性であるように思えるからだ。

しかし、何故、「夫婦」は互いに「恋」をしてはいけないのだろうか。楽曲「恋」が穿つのはそうした偏見である。「胸の中にあるもの/いつか見えなくなるもの/それは側にいること/いつも思い出して/君の中にあるもの/距離の中にある鼓動/恋をしたのはあなたの/指の混ざり/頬の香り/夫婦を超えていけ」。ここで語られるように、星野は「恋」を「指の混ざり」や「頬の香り」といった、生活の営みのなかで発見されるものとして捉えている。

しかしそれは「いつか見えなくなるもの」でもある。日々の生活に追われるなかで、一番身近にあるはずの大切な人への気持ちを忘れてしまう。だからこそその気持ちをいつも「思い出して」、と星野は訴える。

星野において、大切な人を愛することは、その人と共に生きることと同義である。言い換えるなら「恋」は、自分が生きていく「意味」などではないし、あるいは運命の赤い糸でもない。そうした考え方は、大切な人への愛と、日々の生活を分離させて捉えている。星野はその分離を拒絶するのだ。「意味なんかないさ/暮らしがあるだけ」とは、「暮らし」という無味乾燥で退屈な日々が繰り返されていく、ということではない。むしろ「暮らし」こそが「恋」が発見される場であるということ、そうした形で「暮らし」の情緒的な豊かさを取り戻すことが、星野のメッセージなのである。

同様の星野の思想は2017年に発表された「Family Song」にも確認できる。たとえばそこでは、「出会いに意味などないけれど/血の色/形も違うけれど/いつまでも傍にいることが/できたらいいだろうな」と歌われる。ここでは、二人の出会いの「意味」が否定される。それは、二人の出会いが偶然だった、ということだ。しかし、出会いの偶然性は「いつまでも傍にいること」という「幸せ」を否定するものではない。

また、繰り返される「ただ幸せが/一日でも多く/傍にありますように」というフレーズにも、星野にとって「あなた」への愛が共に生きることであることを示している。「一日でも多く」共に生きる日々が存在すること、たとえその日々が多くの偶然に遭遇し、多くの災難に直面し、無意味で不合理な出来事に溢れていても、その現実を「あなた」と共有することが、彼の表現する愛の形なのである。

複雑化する社会への不安に抗して

社会学者の宮台真司は、日本社会において星野が人気を博している理由を、彼の「脱コントロール感、脱支配感、脱コンプレックス感、脱自動機械感」のうちに見出している(※1)。それは、言い換えるなら、一つのものに執着しないということ、自分を変えることに抵抗をもたない、ということに近しい。こうした特徴は部分的には星野の楽曲の世界観にも通底している。

星野の楽曲を貫いているのは、現実から遊離しながら、それによって初めて現実を正当化する「意味」に囚われることなく、自分が置かれている「現実」を大切にする、という態度だ。それは同時に、「現実」が、現実を超えた「意味」によって初めて正当化されるものではなく、現実そのものの価値を認めることでもある。したがってそこには、現実を空疎にするのではなく、豊かな、彩りをもったものとして眺め直そう、というメッセージも含まれている。

ただし、それは現実が偶然的なものであり、不合理に淡々と進んでいく、ということを否定することではない。そうした現実の変化は、自分がそれまで信じていた人生の「意味」を崩壊させることもある。しかし、そうした崩壊に直面しても、自分に与えられた現実に応じて自分を変化させ、崩壊から再生し、新しい「意味」を与えられるようになること、そうした生き方をすることが、星野の世界観の根底で脈打っている。

視点を変えてみよう。何故、そうした世界観をもった星野の楽曲が、これほどまで日本社会で支持されているのだろうか。その背景には、どのような社会の無意識が作用しているのだろうか。

結論から言えば、それは社会の流動化・多様化・複雑化に対する不安ではないか。私たちは自分の価値観が唯一絶対ではないことと常に直面しながら生きている。この世界の無数の多様なコミュニティを目の当たりにすることを余儀なくされている。それらは、相互に打ち消し合い、自分がそこで所属感を得ることのできる特定のコミュニティを奪ってしまう。

そうした所属感の喪失が、翻って、ナショナリズムの台頭を促していることは、疑う余地がない。それに対して星野の楽曲は、そうした大きなコミュニティに自分を帰属させることで「意味」を得ようとするのではなく、むしろ、「意味」を得たいと思う不安、なにかに所属しなければ不安で不安でたまらないという心の弱さそのものを、乗り越えようとするのだ。

その意味において、星野の楽曲は広い意味でのナショナリズムへの抵抗である。大きな「意味」に所属することで得られる安心よりも、「あなた」と共に生きる日々を愛すること、そしてその日々に新しい「意味」を見出していくこと。それは簡単ではない。誰にでもできることではないのかも知れない。しかし、だからこそ、彼の理想は私たちの心に響くのかも知れない。

※1 宮台真司「「処女信仰の男はクズ」社会学者・宮台真司が語る”アカデミック童貞論”が快刀乱麻の切れ味」ニコニコニュースORIGINAL、2018年4月26日

ToyaHiroshi
ToyaHiroshi

大阪大学大学院医学系研究科 特任研究員。哲学・倫理学を研究しつつ、ポピュラーミュージックを中心としたカルチャーにも関心をもつ。著書に『Jポップで考える哲学-自分を問い直すための15曲』(講談社)/2016年)、『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版/2018年)。

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