これは、二十歳のわたしが大人になるための物語-村上春樹『三つの短い話』

6月7日に発売された文學界7月号に、村上春樹の最新短編3作品が同時掲載された。一人の女性について語る『石のまくらに』、18歳の奇妙な経験『クリーム』、そして空想のレコード批評をめぐる『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』からなる、『三つの短い話』である。

二十歳の誕生日を迎えていく月か経ったころ、知り合いの男の子と一晩限りの関係を持った。二十歳過ぎるまでお酒を一滴も飲まなかったくらい真面目に生きてきたわたしは、友人が言う「若いうちに」のセリフに焦っていたのだと思う。
知り合いにバレないようにと選んだ駅は帰宅途中の人々で混み合っていて、外れには古びたネオンが光るラブホテル街が続いていた。もう子供じゃないんだから、いまさら駄々をこねるわけにもいかない。まさかわたしが”こんな場所”にくることになるとは、思いもしなかった。

「ねぇ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」と彼女は尋ねた。僕らは裸で布団の中にいた(『石のまくらに』p11l9)

6月7日に発売された文學界7月号に、村上春樹の最新短編3作品が同時掲載された。一人の女性について語る『石のまくらに』、18歳の奇妙な経験『クリーム』、そして空想のレコード批評をめぐる『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』からなる、『三つの短い話』である。

村上春樹の小説で描かれる男女のセックスは簡素で執着しないから、読んでいて気が楽だ。一作目『石のまくらに』でも、そんな男女の様子が描かれている。快楽についてはほとんど触れられず、男女の愛を確かめるためのものでもない。

わたしは二十歳当時、なぜ人々がセックスに重要な意味を求めるのかよくわからなかった。愛情のないセックスを”試して”みたのは、わたしなりの反骨心のようなものだった。そのときはお互い、別に想う相手がいた。
ホテルを出たあと、ファミレスで食事をとりながら好きな人についての話をして、彼から「ある女性に告白をしたくて」と相談を受けた。なんだかうまく距離感をつかめず、すがすがしいような、もやもやするような、落ち着かない気分が続いた。

十九歳の頃の僕は、自分の心の動きについてほとんど何も知らず、当然のことながら、他人の心の動きのことだってろくにわからなかった。それでも喜びと悲しみのあいだにある多くの事象が、そのお互いの位置関係みたいなものが、まだうまく見きわめられなかっただけだ。そしてそのことがしばしば僕をひどく落ち着かない、無力な気持ちにさせた。(『石のまくらに』p10l8)

このような感情を抱く時期を乗り越えて、ものごとを俯瞰的に理解できるようになったときはじめて「大人」になれるのだろうか。

一度限りの出会い

主人公の家で、別の男性の名前を呼んで頂を迎えた女性は、一人で短歌を作っていて、一冊の薄っぺらい歌集を出版しているのだという。その女性にもまた、別に想う人がいた。そして主人公にとって特別な感情がある女性でもなかった。
それでも時折思い出してしまうのは、主人公の手元に彼女が作った短歌集があるからだった。一ページに一句刻まれた、(だいたい)たった31字の短歌は、読み手の想像を膨らませる。「この単語には別の意味もあるんじゃないか」とか、「きっとあの人のことを詠んだのだろう」とか。いまどきでいうTwitterみたいに、主語や目的語がなくても読めてしまう意味深な字面に、主人公も引き込まれていったのだろうと思う。行動や会話では伝わらない、その人の本心が垣間見える瞬間に立ち会ったとき、自然と関心を寄せてしまう。それも一度関わったことのある相手なら、なおさらである。

また二度と 逢うことはないと おもいつつ 逢えないわけは ないとおもい(『石のまくらに』p20l11)

もう会うことはないだろうとは思っても、インターネットに慣れたわたしたちにとって「二度と会えない」と断言することの方が難しい。SNSの”知り合いかも”欄に恩師や元彼の名前が連なることもあるように、SNSを開けば簡単に、誰とでもつながることができてしまう。
その場限りのセックスなんて、ただの行為に過ぎない。わたしたちは誰かとつながっていることに安心しているだけなのかもしれない。

彼とはあれきり、一度も連絡をとっていない。

尽きない悩みの解決方法

21年間、わたしは一家の長女として過保護に育てられてきた。そのため自ら危険を冒すような真似はしたくないと、保守的な考えを持っていた。もしあのとき思い切った行動を取らなかったのなら、性について臆病で悲観的な価値観しか持てなかっただろうと思う。すべて前向きにとらえるわけにもいかないが、単純な経験一つで価値観が変わってしまうほど、20代前後とは流動的な年ごろなのだ。
若者側もまた価値観を変えてしまうような刺激的な出来事を、心の中で待ち望んでいる。友人たちは常に、恋人がほしいとか旅に出たいとか、そんな変化を求めている。きっと、その出来事がわたしたちを成長させてくれるものだと信じているからかもしれない。

ぼくはそのキリスト教の宣教車が目の前の道路に姿を見せ、死後の裁きについて更に詳しく語ってくれるのを待ち受けた。なんでもいい、力強くきっぱりした口調で語られる言葉を、おそらくぼくは求めていたのだと思う。(『クリーム』p31l2)

2作目『クリーム』の主人公は、18歳の浪人生時代の「ある一日」を思い出しながら語る。その日は知り合いの女の子が主催するピアノリサイタルへ招待されていた。再会の不安と片手で握った花束の気恥ずかしい思いを胸に、重い足どりで会場へ向かうが、なぜか会場には人影が見当たらない。派手な赤い花束を抱えたまま途方に暮れていた。

今回掲載された3作品は、主人公が若かりし大学時代を回想するストーリーだ。精神的に未熟であり、正しいことが何なのか、自分が何者であるのかもよく分かっていない。年相応の悩みや、将来への不安も抱えている。『三つの短い話』で語られていたのは、そんな若いころに起こった転機についての話だ。

途方に暮れた主人公にとって、転機になった出来事が、そのあとの老人との出会いだった。

「中心がいくつもあってな、いや、ときとして無数にあってな、しかも外周を持たない円のことや」と老人は額のしわを深めて言った。「そういう円を、きみは思い浮かべられるか?」(『クリーム』p34l2)

急にこんな問いを投げかけられたら、どう対応するだろうか。わたしだったらイヤフォンをつけてその場を立ち去ってしまうかもしれない。しかしこのときの主人公は「言葉」を求めていたのだ。だいいちにリサイタルを聴きにきたのだから時間を持て余していたし、自分がどんな状況にいるかわからなくて、このあとどうしたらいいのかもわからない。仕方なく不思議な円のことを考え始めた。
実はこの問いには、答えがない。答えがないことを考え続けることが、自分の人生においての「クリーム」になると、老人は言った。
刺激的な変化が重要なのではなくて、それを考え続けていくことが重要なのだ、と。わたしはこの先ももっと自分の経験と向き合って、成長していく必要があるみたいだ。

記憶を辿る言葉

1963年、わたしの父親が生まれる5年前。ケネディ大統領が暗殺され、黒澤明監督の『天国と地獄』が公開され、東京オリンピックを翌年に控えていた。映画『コクリコ坂から』の舞台になった年と言ったら想像しやすいだろうか。
3作目『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』の主人公は、このころ大学生だった。「バードが戻ってきた」ではじまる原稿を書き上げ、原稿料をもらって活字になった。それは、レコード批評のものだった。

バードが戻ってきた。なんという素晴らしい響きだろう!(中略)
時は1963年だ。人々がバード=チャーリー・パーカーの名前を最後に耳にしてから、既に長い歳月が過ぎ去っていた。バードは今どこでどうしているのだろう?世界のいたるところで、ジャズを愛好する人々は囁きあったものだ。まだ死んではいないはずだ。亡くなったという話を聞かないから。でもな、と誰かが言う、生きていると言う話も聞かないぞ。(『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』p40l1)

チャーリー・パーカーは有名なサクソフォンプレイヤーだ。引用文のあとに、彼が活躍するジャズのジャンルを超えて、「ボサノヴァ」のアルバムを出すのだと続く。
しかし、彼は実際1955年に亡くなっているし、ボサノヴァカバーのアルバムは一枚も出していない。これは架空のレコード批評なのだ。批評を読んでレコードを探し求める人も出るくらい、よくできた原稿だった。
主人公が社会人になったとき、彼は偶然にも(必然かもしれない)、この架空のレコード『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』を見つけることになる。それから、もう一つ不思議な体験をする。自分の夢にバードが出てきて、ボサノヴァの名曲「コルヴァド」を演奏してくれたのだ。

それでもバードが口にした言葉を脳裏に蘇らせることはできた。その記憶が薄れないうちに、彼の語った一言ひとことをできる限り正確にボールペンでノートに書き留めた。それがその夢に関してできる唯一の行為だった。(『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』p53l13)

わたしが上記にも書いた、二十歳のときに体験した出来事について、まだだれにも語ることができなかったとき、自分の思いや感覚をひたすらノートに書きなぐった。白黒はっきりつけられない、もやもやとした感情を、どうにかして解消したかったのだ。それは未来の自分へ向けた議事録みたいなものだった。
『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』の主人公も、きっとそうだったのではないかと思う。批評を書いた大学時代から時を経て、ものごとを俯瞰的に考えられるようになったころ、「バード」の存在を介して過去の自分と向き合うことになる。

すでに体験したものごとは、徐々に記憶が薄れていって、いつか思い出せなくなってしまうときがくる。しかし、書き記された言葉が消えることはない。歴史が日々書き残されてきたように。
わたしたちは、記憶をつないでおくために「言葉」をパイプ役にして、過去と今について考える。幼い頃に読んだ本を今読むと、感覚が変わっていることがある。そのように幼い頃の思い出を今思い返して、人生の「クリーム」を探していくのだ。
経験は一つ残らず無駄ではなかった。20年後にそう言えるように、わたしは絶えず考え続けていこうと思う。

澤村成美
澤村成美

二十歳。記者を目指し、メディア学科に在学中。興味分野は、人権・ジェンダー・まちづくり。趣味は映画鑑賞と読書、散歩。