断片的な世界で断片的なまま生き延びること──鈴木健『なめらかな社会とその敵』書評

SF作家・樋口恭介による連載書評。今回は鈴木健『なめらかな社会とその敵』を題材とし、「個の異質さ」と「全体という単位」をめぐる思考が独特の饒舌体で語られる──

サイボーグは、異なる部分が作用するための諸原理が単一のシステムを形成しないため、身体でも機械でもない。各部分は互いに釣り合いがとれてもいないし不釣り合いでもない。内部のつながりは集積回路を構成してはいるものの、単一のユニットというわけではない。

それはひとまとまりのイメージではあるが、全体性のイメージではない。想像と現実とを接合するからだ。サイボーグは、仮想存在のイメージであり、その文脈や参照点のイメージである。つまり、想像上のサイボーグ達の世界における、他者とつながっているサイボーグのイメージであるとともに、そのイメージを用いて志向するにふさわしい今日の世界における様々な状況の間のつながりのイメージである。

──マリリン・ストラザーン『部分的つながり』

 

1.断片的な世界、断片的な私たち

これは書評である。私は書評を書いており、あなたは書評を読んでいる。
本を読み、考え、考えながら書くこと。本を閉じ、書きながら考え、また本に戻り、考えながら読むこと──循環するその軌跡が結晶化したものが、書評と呼ばれるひとまとまりの文章である。
当然ながら、書評は書物に依存する。そのため書評は書物の反復であり、全ての書評は書物の反復である。
全ての書評は反復を免れえない。それは書評が書評であることに起因する、原理的な性質である。よって、書評である本稿もまた、先行する書物の反復であることを否定できない。
反復においては新奇なるものは存在しない。
けれども、それは無意味であることを意味しない。
反復は無意味であるものでは決してない。
ある歴史の断面において、重要であると考えられること──そうした事柄が書かれた書物というものが、この世の中には一定数存在する。
そうした本は、
可能な限り大きな声で、
可能な限りの人数で、
可能な限り、何度でも読まれ話され叫ばれるだけの価値がある。
たとえそれが届かない声だったとしても。
それが届かない声であるがゆえに。
何度でも。
どこかに向けて。
誰かに向けて。
全てに向けて。

以下に、鈴木健『なめらかな社会とその敵』を紹介する。
本書は、情報技術に関する書物と知られるが、何よりもまず人間のための本である。
ここで呼ばれる人間とは、今ここで生きている私やあなた、それから私の子どもたちや、あなたの子どもたちを指している。そこには愛があり、疎外がある。人の愛には限りがあり、限りがあるがゆえに疎外が生まれる。それは原理上不可避な事柄である。
しかしながら、可能な限り疎外をなくし、愛の総量を増やすことはできる。本書はそれを目指して書かれている。
人は必ず愛し合うことができる。誰しも平等に。
今はできなくとも、少なくとも試みることはできる。
少なくとも、私はそう読んだ。

『なめらかな社会とその敵』。本書は今から300年後の、24世紀に生きる未来人に向けて書かれており、ある種の歴史哲学書の側面を持っている。
カール・ポパーの著作『開かれた社会とその敵』へのオマージュとなっているそのタイトルは、新たな──24世紀の未来人からすれば前提となっているはずの──社会構想への宣言文であり、それは必然的に、社会の構成要素たる人間に対する、新たな人間観を提示することを意味している。
インターネット、そしてSNSの発達と普及によって、21世紀に生きる私たちは常時ネットワークに接続され、ソーシャルグラフを構成する一個の──文字通りの──ノードとして見なされるようになった。私たちは、これまで通り物理世界における〈社会〉を構成する一員であると同時に、今や、論理世界における〈ソーシャル〉を構成する一要素でもあるのだ。物理的な〈社会〉と論理的な〈ソーシャル〉は、異なる集合でありながら、ときに重なりときに相互に干渉しあう、ハイパー・サイクルと呼びうる、新たな──メタな──生態系を生成しつつある。
世界は複雑性を増している。世界はそもそも複雑で、人は複雑な世界を複雑なまま認識することができないために、これまで人は、世界を認識可能なレベルまで単純化して咀嚼する戦略をとってきた。物理的な世界の法則や傾向は、ハードウェアと紐づくために良くも悪くも柔軟性と拡張性に乏しく、そのため変化の速度も変化の量も小さい。
朝がくれば陽は上り、夜になれば陽は沈んで月が出る。カラスは黒く、白いカラスは現れない。昨日そうだった事柄は今日も同様で、おそらく明日も同様だろう──世界は一貫性に基づいて存在し、そうした予測が崩れることはほとんどない。単純化戦略はそうした世界観を前提としている。
しかし一方で、論理的な〈ソーシャル〉の世界はそうではない。昨日までの当たり前が今日はそうではないかもしれない。
大統領は会議の発言をソーシャル上で撤回し、日本政府は公文書改ざんをしてなおSNSでは正義を語り、災害時には飲み会画像を投稿する。レイシストの議員が人権を否定する。国会とメディアとSNSで、それぞれ異なる主体が異なる主張を喋り続ける。
事実はあとから書き換えられ、情報は断片化し、一貫性は論理ではなく信仰によって担保される──そうした世界では、単純化された認識モデルは作った先から陳腐化していく。
近代の終わりが叫ばれて久しい。ポストモダンという言葉すらも今ではもう足りていない。断片が断片のまま浮遊し、断片から次の断片へと絶えず現実が移り変わり続ける複雑な世界の中で、私たちは新たな言葉を求めている──本書は、そうした問題意識をもって、新たな言葉を提示する。
断片的な私たちが断片的な世界で生きること。
繋がりながら繋がることのない私たちが、それでもなお繋がろうとすること。
その処方箋として本書で提示されるのが、〈なめらかな社会〉と呼ばれる新たな社会のモデルである。

2.線を引くこと──認識の、生物学的な制約の原理

詳細に入るその前に、まずは前提を確認する。
当然ながら、この文章は私によって書かれている。私とは、ある人間個体について、一つの自律的で一貫性のある存在であると見なし、結晶化された自意識のことである。全ての文章には署名が与えられ、署名は私性に紐づいている。私は樋口恭介という名の一個の人間個体である。そしてこの文章はその名の下に書かれている。
多く文章は一人称で書かれる。たとえば私がこの文章を書いている。それとも、「私がこの文章を書いている」。たとえ引用符に囲い込まれたとしても、一人称的主体である私が──あるいはそうでなくとも一人称的主体である誰かが──この文章を書きそして引用したには違いない。あなたはこの文章が書かれていることを疑いえない。なぜならここでこうしてあなたが読んでおり、読むあなたがここでこうして存在すること自体を、あなたは疑うことができないのだから。
あなたはこの文章を読んでいる。あなたはこの文章が書かれていることを知っている。この文章は一人称的主体によって書かれている。個体である何者か、固有名詞を持った何者かによって。そうした性質を持った〈この私〉がこの文章を書いている。
こうしてこの文章は私によって書かれていることが宣言される。「私がこの文章を書いている」のだと。

全て人間は一人称的主体であることが広く知られている。私は彼ではなく彼女ではなくあなたではない。私にとっては私が私であり、あなたにとってはあなたが私である。存在する私、かつて存在した私、存在することのなかった私。私1から私nまで、ここに書かれ読まれ忘れられてゆく私も含め、世界は無数の私によって成立している。
無数の私たち。
無数の一人称たち。
ここにいる私という私。
ここにいるあなたという私。
そこには固有の身体があり、固有に与えられた名前がある。「私は私であり、私が私だと認識する私は、たしかにここに存在する」。そうした固有の実感を、私もあなたも担っている。「だから、私とあなたは違う個体なのだ」。私はそう思い、あなたもまたそう思う。
私たちは分かり合うことができない。決して。
私が私であるということ。私はあなたではないということ。そうした、私であるという固有の認識が、私とあなたを引き裂いてゆく。私とあなたの間に、乗り越えることのできない絶対的な境界が引かれる。
「境界を引いて世界をふたつに分割するのは物理的な壁だけではない」と本書は言う。「人間の心の中にも壁は築かれる」と本書は言う。けれどもそれはなぜなのか。それはどのような原理に基づいているのか。そうした根源的な疑問に対して、本書は、人間の、生物としての形式に着目し、一つの解を与えている。
「生命の本質は線を引いて世界を分けることである。あらゆる生命は細胞から成り立っているが、細胞膜とは、細胞の内側と外側を分けてリソースを囲い込むためのものである。人間を含めた生命にとって、膜を作ること、境界を引くことは、生きることそのものと等しいある種の業なのである」
細胞膜の役割は、細胞が必要とするリソースを膜の内側に囲い込み、限定的な枠組みの中で最適化することにある。細胞は個体単位で自律的に運動し、細胞と細胞は代謝ネットワークで接続される。
細胞はリソースを私的に所有し、それに基づき生産・加工し、アウトプットをネットワーク経由で他の細胞に連携するのである。
本書は次のように続ける。
「細胞膜の内側はひとつのシステムとして自律性をもち、弱い意味での一人称性、主観性が立ち上がりはじめる。あらゆるプロセスが、膜を維持するという内的な目的のための手段となり、システムの反応は、その目的を達成するための認知プロセスになるからである」
本書によれば、こうして一人称的な私の性質は、代謝ネットワークの中で生成され、反復的に描画される。人間は、生物としての原理上、膜を作り囲い込むことで内側と外側を作り出し、線を引くことで存在が可能となる形式をとっている。
人間の身体は細胞の集合によって成立し、脳は細胞の集合によって成立している。人間の心は、人間の認識は、線を引くことで成立し、それがゆえに、一人称がもたらす線引きのフラクタル構造は認識に基づき反復される。
以上により、社会は、世界は、宇宙は、一人称の境界によって措定される。

細胞は有機物であり、細胞から成る人間の脳は有機物である。有機物は、一度に処理可能なリソースも、処理を実行する機能自体も、限定的で拡張性に乏しい。人間の脳には限界があり、認知能力には限界がある。人は、この宇宙に起こる全ての事象を把握することはできず、全ての事象を理解することはできない。
人は複雑なものを複雑なまま受け容れることができない。
人は全てを愛することはできない。
愛は最も優れたものであるが、私たちはその全てを知ることはできない。
私たちが知るのは一部分、今見ているのは、ぼんやりと鏡に映ったものに過ぎない。
完全なものが到来する、そのときまでは。

3.ソーシャルにおける政治的選択

私性についての話は以上であり、以降は現代の政治と社会と技術の関係に話を戻す。
政治学者カール・シュミットは、その主著『政治的なものの概念』において、政治という概念は「公的に敵と味方に区別すること」と定義づけた。
「友敵理論」と呼ばれるこの有名なテーゼは1932年──今から80年以上も前──に提唱されたものであるが、今なお全く古びておらず、それどころか、ポスト・インターネットの複雑化する現代の世界において、その重要性はさらに増しているように思われる。
精度や品質よりも拡散力と速度が重視されるSNS以降のインターネット空間──〈ソーシャル〉──では、当然ながら、条件反射的な感情の反応を煽る情報が多く流通する。
前述したとおり、原理的に内と外を分けてしまう人間という生物にとり、二項対立は最も認知しやすい情報の構図であり、男か女か、右翼か左翼か、東京在住か地方在住か、といったシンプルな対立の構図を前景化された情報は、負荷なく咀嚼可能であり、目に入ったその瞬間に立ち上がる感情に任せて、「いいね」や「RT」や「シェア」のボタンを押し、自らの政治的な立場を表明する──「私はあなたの友/敵です」と表明する──ことが可能となるのである。
かくしてソーシャル上での友敵の図式は──代謝ネットワークにおける細胞がそうであるように──自律的・反復的に強化され拡張される。
「ポジションをとれ」と言われることがあるが、ポジションをとるということはある場所を私的に囲い込むということであり、そこから何かを話すこと──ポジション・トークをすること──は、友敵の構図を強化することにほかならない。
一度できあがった構図を覆すのは難しい。自分で言ったことややったことや引き受けた立場を撤回することは、最初にそれを言ったときややったときや引き受けたときよりも、大きな労力を必要とする。そこには既に他者の目が介在しており、社会的な認知と責任が介在するからだ。
社会は構成要素を構造化することで自己を再強化する。自転する社会の中では、そこに入るよりもそこから抜け出すほうが難しい。あなたはそこで、あなたらしさを遂行し続ける。あなたは自分自身でそれを選択する。あなたはそれを、自分自身で選択したのだと見なされる。そこでもやはり、私たちは一人称的主体なのであり、どこかで何かを成すときには、一人称的な私が一人称的な私自身の選択で、それを成すものと理解される。
主体には一貫性が求められる。少なくとも他者からはそう見なされる。あるいは、「少なくとも他者からはそう見なされる」と私やあなたが思いこむ、まなざされることの自意識が、人が社会を運営する前提にはある。
しかし、人間は──特にソーシャル上においては──そこまで事前に考えて自らの立場を選択しているわけではない。先に書いたように、人はそれが合理的であるから選択するのではなくて、それに喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しさを覚えるがゆえに選択する──「いいね」を押し、「RT」を押し、「シェア」を押す──のである。
私たちは、自分が思っているほど合理的でなければ論理的でもない。
私たちが扱えることのできる脳のリソースは有限で、計算は不完全で、認識はつねに誤り、私たちは事実と想像を取り違える。
「人間は」と本書は書いている。「合理的で機械的な存在として他の動物と異なるものとしてみなすのではなく、感情的で身体的な動物の延長線上として、やや特殊な能力を進化的に獲得しただけの存在にすぎないと、次第に考えるようになってきた」
本書第6章では次のようなエピグラフが掲げられる。

ぼくは矛盾している? いいさ、ぼくは矛盾している。
(ぼくは大きくて、ぼくのなかには大勢の人がいる)

──ウォルト・ホイットマン『ぼく自身の歌』

人は矛盾をかかえる動物である。人が矛盾を避けることはそもそも難しく、より一層難しくなりつつある方向へ、世界は進み続けている。そこでは、矛盾に対する社会的処理の方法が、新たな仕方で考えられなければならない。
矛盾をかかえながら矛盾を引き受け、それでなお、「ぼく」という一人称的主体を保つこと。「いいさ」と言いつつ、破滅を避けること。「ぼくのなかの大勢の人」とともに生き続けること。
ここでうたわれるそうした主体を、人はいかに想像することができるのだろうか。

4.SNSの見た夢とその挫折

読みを進める前に少し、筆者の私的な思い出話をはさみたい。
筆者の記憶では、かつて、SNSには新たな社会像に関する希望が託されていた。
今から10年ほど前、Twitter日本語版がサービスを開始し、アーリーアダプターたちがこぞってツイートを投稿しはじめたころには、多くの夢が語られた。まだウェブ2.0という言葉が生きていて、政府2.0や政治2.0、一般意志2.0という言葉が本気で語られていた。本書は2000年代から約10年の歳月をかけて書かれ続けた本だという。だから、本書にも当時の空気感が宿っている。
そのころ、SNSはまだ生まれたばかりの子どもだった。インターネットだってまだ若かった。ソーシャルという言葉はまだ、ウェブエンジニアやITジャーナリスト、流行り物好きの変わり者たちのための言葉だった。ついでに言えば筆者はそのころまだ10代だった。何もかもが若かった。iPhone 3Gのディスプレイを眺める当時の筆者の目には希望が映り込んでいた。時代は変わろうとしていた。何かが変わる予感があった。
断片的であることの可能性。
主体ではなく主張が前景化されることの可能性。
そうした可能性に賭けた、未来の情報社会のための夢想のような議論が、当時は多く広く行われていたように思う。
哲学者でありSF作家であり現在は株式会社「ゲンロン」の経営者でもある東浩紀は、2010年の著作『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』の中で、Twitterについて次のように分析している。
「ツイッターの呟きは一四〇字を限界としている。だから論理的な説得や有益な知識の伝達には限界がある。転送となると、さらにその条件は厳しくなる(ひとつの発言だけが切り取られ転送されることになるので、情報量は必然的に減ってしまう)。したがって、この発言はリツイートしてよいのかな、この情報は有益なのかな、と読み手に躊躇や反省を求める内容では大きな拡がりは期待できない。結果として、ツイッターにおいては、瞬間的にひとを驚かし、動物的に思わずリツートボタンをクリックしてしまうような発言こそが、島宇宙の壁を破壊し、何千何万の異質なタイムラインを横断する役割を担わされることになるのである。それは、有益な情報を含んだ内容こそが人々に支持され拡散していく、という常識的な集合知のモデルとはかなり異なった光景だ」
ツイートは断片的なものであり、条件反射を促すものである。
ここまで本稿が否定的にとらえてきたTwitterの特徴が、ここでは反転され、「ゆえに島宇宙を破壊する」と肯定的に解釈されている。
断片的な人間が断片的に意志を表明し、断片的に触れ合っていくこと。論理的に一貫した主体ではなく、非論理的で行き当たりばったりな断片の集積が、データ解析技術によって可視化され、異質なるデータの集合としての、多様体としての社会を構成するということ。友敵の図式が撹乱され乗り越えられ、友と敵の境界が曖昧になる社会をつくること。そうした夢が、ここでは語られていた。
しかしそれから8年が過ぎ、現実はそうはならなかったことを、今の私たちは知っている。現実はその逆で、SNSは一人称的主体が作る境界を色濃くし、友敵の図式を強化した。それはなぜなのか。そして、それはどのようにして乗り越えられるのか。
おそらくは、ここで必要とされるのは、既存社会においてこれまで重要視されてきた、一人称的主体の一貫性に対する信仰を払拭することなのではないか、と筆者は考える。
物理的な社会と論理的なソーシャルは、絶えず両輪で回転するハイパー・サイクルなのであり、それぞれは相互に影響をおよぼしながら発展する。
社会は社会で、ソーシャルはソーシャルでと、個別に独立して生態系を生成することは不可能なのであり、社会の文化はソーシャルの文化へ、ソーシャルの文化は社会の文化へと、絶えず移入をし続ける。
そのために、ソーシャルにおける環境設計は社会における環境設計を考慮する必要があり、断片的な世界を断片的なまま生きるには、既存社会を支える根本原理である一人称的主体の解体と再構築が検討される必要がある。

5.分人──分解される主体と認識の束

本書はここに至り、哲学者ジル・ドゥルーズの議論を踏まえ、「分人」という概念を導入する。新たな社会を構成する新たな人間観である「分人」について、本書は以下のように概説する。ここでは「分人」という概念が端的に整理され要約されているため、少し長くなるが紹介したい。
「近代民主主義は、一貫した思想と人格を持った個人(individual)が独立して存在している状態を、事実論としても規範論としても理想として想定している。
個人に矛盾を認めず、過度に人格の一貫性を求める社会制度は、人間が認知的な生命体としてもつ多様性を失わせ、矛盾をますます増幅させてしまう。そして、一貫性の強要は、合理化、言い訳を増大させ、投票結果を歪めることになる。
そうした近代的な個人(individual)にかわって、分人(dividual)という概念を提示してみよう。”dividual”は、ジル・ドゥルーズが「管理社会について」という短い論考の中で使った概念である。彼は、現代社会は規律社会から管理社会へ移行しているというミッシェル・フーコーの分析に着目した。権力のあり方が、学校、監獄、病院、工場といった閉鎖された空間における規律訓練から、生涯教育、在宅電子監視、デイケアといった時空間にひらかれた管理へと変容していくという。
規律社会において、人々が同定されるのはサインと番号のペアであり、それぞれ個人(individual)と大衆(mass)のペアを意味している。それに対して、管理社会では、パスワードというコードが重要である。こうした変容はコンピュータという機械によって可能となる。人々を動かすのは、もはや閉鎖された空間での規律を獲得するための合い言葉(watchword)ではなく、パスワードによってひとりが複数の異なるアクセス権を状況に従って得るようになる。こうした、個人/大衆(individual/mass)ではなく、分人(dividual)というべき存在が生まれてくる。ドゥルーズはこのように分人(dividual)を導入する。
そもそも”individual”は、否定の接頭語”in”と「分割できる」という意味の”dividual”が合体し、「これ以上分割できない」すなわち個人という意味になった。しかし、神経科学の知見にあるように、人間は本来分割可能であり、しかもかりそめにも個人として統合してきた規律社会のたがが、もはや外れようとしている。
近代民主主義が前提としている個人(individual)という仮構が解き放たれ、いまや分人(individual)の時代がはじまろうとしている。人間の矛盾を許容してしまおう。そして、分人によって構成される新しい民主主義、分人民主主義(Divicracy=dividual democracy)を提唱することにしよう」
繰り返しになるが、人間は本来矛盾に満ちた動物である。主体の一貫性とは近代社会の成立とともに構想されたフィクションであり、事後的に・強迫的に身につけられる性質である。
しかし、それは人間の生物学的な原理原則に反する規律であり、そうした無理は遅かれ早かれ破綻する。
断片的な世界で、人間は断片化された主体を目指す。
社会はそれでも主体の一貫性を前提とする。
社会は主体に呼びかける。
解体された主体はそれでもなお主体であろうとし、どこか、何か、単純で安易な図式の中へ自分を当てはめる。
破綻した社会と主体に待っているのは、社会と人間のあいだで拡がり続ける齟齬であり、どこまでも続く友敵図式の連鎖である。
連鎖するそのねじれの中で、それでもなお分人であること。友敵を撹乱すること。それを目指すこと──それは、どのようにして試みられるのだろうか。
本書はそこで、細胞単位まで砕かれた分人=細胞群=サイボーグ=「ひとまとまりのイメージではあるが、全体性のイメージではないもの」という新たな図式を提案する。

6.細胞ネットワークとサイボーグ

21世紀前半の情報技術について触れておく。
2018年現在、IoT(モノのインターネット)の普及と拡大、精度と品質の向上が進展している。
私たちはスピーカーに話しかけて音楽を流し、スマートフォンを用いて出先から部屋の温度や湿度を調整し、部屋に備え付けられたボタン一つで消耗品の補充を行う。センサーは絶えず私たちの行動データを解析し、最適化された行動の候補を選定し私たちに届ける。私たちは眠っている間も含めて常時ネットワークに接続されている。私たちのライフログは生きている間ずっと蓄積され続け、死に至るまで、あるいは死んでからも解析され続ける。
「センサーデバイスが世界中に張り巡らされるようになるユビキタス時代になると、世界のあらゆる自然現象がネットワークでつながり、ひとつのコンピュータをつくりあげる」。本書はそう主張するが、本書が発表された2013年からたった5年で、そうした予測はほぼ達成されているのだと言っていい。そして本書は、ユビキタス以降のネットワークのありかたとして、次のように議論を展開する。
「私たちが皮膚の境界をもってひとつの個体としてみなしがちなのは、皮膚の内側の細胞同士の相互作用の密度が、別の個体の細胞との相互作用に比べて大きいからである。個体の内側同士のほうが相互作用が強いという前提条件が崩れてしまえば、こうした常識は脆くも崩れ去る。コンピュータの登場によって、物理層と認知層のあいだに万能のミドルウェアが提供されることにより、個体同士を超えた相互作用の可能性がつくりだされる。ある個体の細胞と別の細胞が強く相互作用するようになれば、新しい知性のかたちが生み出されるかもしれない。その姿はあたかも細胞性粘菌が、あるときは単細胞のアメーバ状であり、またあるときは単細胞のアメーバ状であり、またあるときは多細胞生物となり、そしてまたあるときは多細胞が合体してひとつの細胞となるかのようである」
ここでは、ユビキタス化したネットワークと IoT、それから来たるべきナノテクノロジーが可能にする「細胞のインターネット」の姿が示唆されている。
一人称を手放した分人たちが、細胞単位でネットワーク接続された世界。細胞をひとつのコンピュータ=ノードととらえ、現在よりもさらに網目の細かいネットワークがハイパー・サイクルを運営し、ハイパー・サイクルそのものがひとつのコンピュータとして自立駆動する世界。部分ではなく全であり、全であることで一であるような社会=ソーシャルの可能性。主体性が分解され、私的な境界から溶け出すということ。
一貫した主張や態度や社会的責任ではなく、センサーデータやソーシャルデータ、その他購買情報や位置情報、匿名加工情報に基づく断片的なデータの集積や、細胞単位での代謝データの一つひとつが、来たるべき〈なめらかな社会〉においては、一個の〈人間個体〉として見なされる。技術によって細胞や身体の自律的運動が増強され、そうすることで、これまでの自我や意識をはじめとする人間の定義が変化する。
こうした、人間が生得的に持つ能力を増強したり拡張したり技術は、IA(Inteligent Amplifer)と呼ばれ、一般に、サイボーグ技術として知られている。
本書の著者、鈴木健は、国際大学GLOCOMで開催された研究会「情報社会の倫理と設計についての学際的研究」の中で、サイボーグ技術について、「(サイボーグ)技術は何を根本的に変えるのか。それはわれわれの自我や自己の概念にほかなりません」と説明している。「(サイボーグ技術)とユビキタス・ネットワークがともに実現すれば、世界のどこかにあるデバイスを考えただけで動かすことができるわけで、これはかなりさまざまな社会システムに影響を与えることが想像されます」
かくして、生体と機械の混成体であるサイボーグのノードが、細胞レベルでネットワーク接続され、社会の形成を開始する。
細胞ネットワークとサイボーグによる新たな社会がここで実現されるのである。

7.なめらかな世界とコスモゾーン

分人たちが細胞レベルで結びついた社会の構想。
本書の視野はそこだけにはとどまらず、本書は終章「生態系としての社会」に至り、細胞ネットワークを──社会だけではなく──自然生態系にまで拡張することを夢想する。
そこでは、細胞ネットワークに接続される生体は人間に限らず、動物や植物までもが想定される。
鈴木健は次のように書いている。
「なめらかな社会における資源と意思決定の問題は、本来、生態系全体の中で考えるべきであろう。すなわち、人類以外の生物も含めて、資源の貨幣的交換や集合的意思決定を行うことはできないのだろうか。イルカの研究で著名なジョン・リリーは、クジラやイルカに国連の議席を与えるべきだと主張した。これは決して笑い飛ばすような論点ではない。人類が生態系の一部である以上、他の生物の存在を含めなければ、なめらかな社会システムは未完なままである。拡張現実の技術は、現在のところ人間のために使われているが、今後は魚や草花のための拡張現実ができるようになるだろう。情報技術によって人間同士のコミュニケーションのプロトコルが増えたのと同様に、異なる種の間でのコミュニケーションが多様化するのは必然である。人間が虫や鳥や木ともっと交流できるとしたらどれだけすばらしいことだろう。こうした技術の延長線上に、生態系全体としての集合的意思決定や資源配分問題を解決する社会システムを構想することができるはずだ。近代以降、人間は他の動物の頂点に立つ非対称的な存在として世界をとらえていた。だが、人間中心主義の時代は終わりを告げようとしている。なめらかな社会が生態系にまで広がり、より対称性のある社会が可能になるかもしれない」

ところで、書評の本論としては以上であるものの、以下に蛇足を加えたい。
未来のネットワークについて考えるとき、筆者の頭の中にはいつも、子どものころに読んだ『火の鳥』の絵面が浮かんでくる。
宇宙空間を自由に飛びまわる不死鳥。永遠の命をつかさどる黄金の羽根。黒く長い、豊かな睫毛に覆われた美しい瞳。
手塚治虫『火の鳥』において、火の鳥は、コスモゾーン──時空を超えて存在する、宇宙そのものである生命体──であると語られる。
コスモゾーンとは宇宙そのものであり、同時に、極小から極大に至る、宇宙を形成する全ての構成要素をも指す。
そこでは、全ての事物はつながっており、フラクタルな構造を持つと語られる。
素粒子も、原子も、細胞も、円環的な構造を持つ一つの運動体であり、それと同様に人間も、あるいはその他の動物も、植物も、微生物も、それぞれが同様の構造を持つ運動体なのである。
それらの一つひとつは、独立した生命であると同時に独立した宇宙であり、そして相互に関係しながらさらに大きな宇宙をも形成している。
地球上の全ての生命は、ひとまとまりの生態系を形成しており、同様に、地球を含む惑星もまた、ひとまとまりの生態系として、太陽系を形成している。
太陽を含む数千億もの恒星たちが銀河を形成し、形成された銀河はまた、その外にある数千億もの異なる銀河とつながっている。

こうして宇宙は存在している。
138億年の歴史の中で、構成要素は無限に近く循環を続けている。
人間は一つの生命体であり、生命である個体の一つひとつは、やがて役目を終えて力尽きる。
人間は、時間を観測し、時間経過に伴う物質の変化を観測することのできる数少ない動物であり、ゆえに、自分を自分と認識できる時間に終わりが来ることを知っている。
人間は動物である。
人間は、死んでしまう動物である。
人間は、一人称的な動物である。
人間は、感情的な動物である。
人間は、自らが過ごしてきた時間の中で思い出を作り、自らが観測してきた思い出を何度も繰り返し眺め、懐かしみ、思い出と思い出のあいだで揺れる動物である。

死は、一つの生命の終わりである。
けれど、宇宙という巨大な生命体のうちの構成要素としてとらえたとき、人間が生まれて、生きて、死んでいくということは、決して終わりなどではなく、循環する運動の過程として理解することができる。
人間は、生まれ、生きて、死んでいくその運動をもって、コスモゾーン全体の生態系を成立させているのであり、かつてその個体を構成していた細胞は、原子は、素粒子は、再び別の個体へと移ろい、新たな生命を生成し始める。

本書は、24世紀に生きる未来の人間のために書かれた。
300年先の未来に、私はおそらく今の私のかたちでは存在していないが、かつて私を構成していた素粒子のいくらかは、草や木や虫や魚にかたちを変えて、細胞ネットワークに接続され、細胞レベルで認識可能となったコスモゾーンの中で生き続けるだろう。
そしていつか、私だった生き物は、私の友達だった生き物や、私の妻だった生き物や、私の子どもだった生き物や、そしてそのまた子どもの子どもたちと、接続されたコスモゾーンの中でもう一度出会い、私の知らない言葉を話すだろう。そしてそれは、細胞群=サイボーグたちの織りなす、完全な、愛の言葉となるだろう。
私たちは完全な言葉でささやき合う。
私たちは愛の言葉をささやき合う。
全てがつながり、全ての意識が独立しながら統合され、全ての矛盾が矛盾として存在するままに統合され乗り越えられた、完全な、なめらかな世界の中で。

愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分であるがゆえに。
完全なものが到来したときには、部分的なものは廃れよう。

わたしたちが今見ているのは、ぼんやりと鏡に映ったもの。
そのときに見るのは顔と顔を合わせてのもの。
わたしが今知っているのは一部分。
そのときには、
自分が既に完全に知られているように、
わたしは完全に知るようになる。

だから、
引き続き残るのは、
信仰、
希望、
愛、
この三つ。

このうち最も優れているのは、愛。

──『新約聖書』コリントの信徒への手紙 13章

 

【参考文献】
・マリリン・ストラザーン『部分的つながり』2015年、水声社
・鈴木健『なめらかな社会とその敵』2013年、勁草書房
・東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』2011年、講談社
・東浩紀、濱野智史『ised 情報社会の倫理と設計 設計篇』2010年、河出書房新社
・手塚治虫『火の鳥 全13巻』2004年、角川書店
・共同訳聖書実行委員会『新約聖書 共同訳全注』1981年、講談社

樋口恭介
樋口恭介

1989年生まれ。SF作家・翻訳家。主な仕事に『構造素子』(第5回ハヤカワ SFコンテスト大賞受賞作。第49回星雲賞長編部門候補作)、Oneohtrix Point Never『Age Of』歌詞監訳、ラモーナ・アンドラ・ザビエル名義で短編小説の翻訳・紹介など。