ナショナリズムと承認の問題――RADWIMPSの『HINOMARU』について考える

『HINOMARU』とは何だったのか――多くの論争を巻き起こしたRADWIMPSの楽曲を、彼らの世界観のなかで考察する。そこに浮かび上がるのは、世界への不安、そして「承認の問題」だった。

RADWIMPSによってリリースされた楽曲「HINOMARU」が論争を引き起こしたことは記憶に新しい。この曲は6月6日にリリースされたシングル「カタルシスト」に収録されたカップリング曲だ。若者に対して絶大な人気を誇る彼らだけに、その影響は計り知れず、論争は日を追うごとに拡大していった。

焦点になったのは「HINOMARU」の詞がもつ明らかなナショナリズムへの傾向である。詞のなかでは、「日出づる国の御名の下に」、「この御国の御霊」といった、軍国主義を想起させる言葉が用いられ、SNSでは早くから批判が上がっていた。これに対して、6月8日、作詞をした野田洋次郎はTwitterで「右も左もなく、この国のことを歌いたい」「自分が生まれた国をちゃんと好きでいたい」と説明したが、批判の高まりを受け、11日には「戦時中のここと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした」と謝罪した。

やがて、ジャーナリストや評論家を巻き込みながら論争は発展していった。近代史研究者の辻田真佐憲は、同曲を「愛国ソング」として解釈しながら、「そこに当てはめる言葉の選択に失敗」していると批判し、コラムニストの小田嶋隆もまた「古語風の言い回しの不徹底さ」を指摘した。政治学者の中島岳志は、野田の出生に遡りながら、同曲を「神秘的な一体感を希求するロマン主義」として解釈してみせた。

しかし、世間で交わされた議論の多くは同曲を政治論争の出汁に使っているかのような印象を与える。RADWIMPSが本当に何を言おうとしていたのか、この曲が彼らの世界観のなかで何を意味しているのか、という問題については、ほとんど誰も興味がないかのようだ。そしてそれは、『HINOMARU』に戸惑う若者を辟易とさせ、社会に対する不信感を翻って増大させているのかも知れない。

この記事では、これまでRADWIMPSによって発表されてきた楽曲を手がかりにして、彼らの世界観との連続性のなかで、『HINOMARU』を解釈していく。それによって、言葉尻だけで彼らを叩くのではなく、またいたずらに彼らを妄信するのでもなく、彼らを“理解”することを試みてみる。

『HINOMARU』とは何だったのか。その素朴な問いに一つの答えを探してみたい。

世界の相対性への不安

RADWIMPSの作風には大きく分けて二つの傾向がある。一つは、世界に対する徹底的な嫌悪感であり、もう一つは、「君」への愛を通じてこの嫌悪感を克服し、世界を肯定しようとする態度である。したがって、彼らの世界観を理解するためには、まずその根底にある世界への嫌悪感を押さえる必要がある。最初に取り上げるのにふさわしいのには『おしゃかしゃま』だろう。

この楽曲の主題は「神」だ。もしもこの世界を作ったのが神だとしたら、この世界に不条理が満ちているのは何故だろうか。何故、神はわざわざ不条理な世界を作ったのだろうか。むしろ、神は人間によって作られた虚構であり、人間は自分自身が神であると思い違えているのではないか。

そうした疑問にとり付かれた「僕」は「馬鹿なんだって/人類なんて/そりゃそうなんだって/分かってるって/だから/1、2、3で滅んじゃえばいいんだって」と訴える。ここには、極めて端的な、RADWIMPSらしいむき出しの攻撃性が示されている。

ただしこの曲の核心は、人間の自己欺瞞に対する怒りではなく、神が結局虚構であることによって、この世界を確かなものにする規準が何もないことに対する“不安”である。「僕」は正義感に基づいて怒っているのではなく、不安だから怒っているのだ。

やや硬い言い方をするなら、それは、この世界に絶対的なものが何もないこと、すなわち世界が相対的であることに対する不安に他ならない。同様のモチーフを描く楽曲として『37458』を挙げることもできるだろう。曲中では、「この何とでも言える世界が嫌だ」、「このどうとでも取れる世界が嫌だ」というフレーズが繰り返される。この曲で「僕」の不満が向けられているのは、「神」ではなく「言葉」である。

当然のことながら、私たちは一つの事柄をまったく違った言葉で言い表すことができる。あるいは、一つの言葉をまったく違った意味に解釈できる。それらは等しく正しい。しかし絶対的に正しいわけではない。

こうした世界の相対性は、同時に、自分自身の存在の相対性でもある。つまり、「僕」がここにこうして生きていることは、たまたま偶然そうなっているだけであって、もしかしたら別であっても構わないようなものに過ぎなくなる、ということだ。だからこそ「僕」にとって世界の相対性は怒りの矛先になる。RADWIMPSの世界観を染め抜いているのは、そうした自分自身の不確かさへの不安なのである。

「君」を介した世界の肯定

こうした不安を打ち消すもの、何も確かなものがない世界に突如として現れ、そこに不動のグラウンド・ゼロを樹立する存在こそ、「君」に他ならない。RADWIMPSにおいて「君」は、単なる恋人に留まらず、「僕」に対して何らかの超越的なものを感じさせる存在として描かれている。そうした傾向は、例えば、『有心論』において明瞭に示されている。

『有心論』において描かれるのは、自己肯定感が希薄であり、「明日を呪う人間不信者」であるところの「僕」が、「君」との出会いによって救済される物語である。

「僕」は、そんな風に自分を変えてくれた「君」を、「肉眼で確認できる愛、地上で唯一出会える神様」と呼ぶ。ここで「君」が「神」になぞらえているのは象徴的だ。実際、「僕」は「君」との出会いによって、世界が新たに「君」によって意味づけられていくのを体験する。たとえば、「誰も端っこで泣かないようにと/君は地球を丸くしたんだろう」、「誰も命無駄にしないようにと/君は命に終わり作ったよ」というフレーズでは、「君」があたかもこの世界の創造神であるかのように表現されている。

この「僕」は、『おしゃかしゃま』において「神」を論理的に弁駁していたのと同じ「僕」である。「僕」は、「言葉」によってすべてが相対化され、自己欺瞞で溢れかえる世界のなかに、ようやく「君」という確かなものを発見する。しかし、「君」が神的な存在であることを確信させるのは、人々の言い伝えによるのでもなければ、論理的な根拠によるのでもない。むしろそれは、「君」がただ目の前に存在するという単なる“事実”に、いわば有無を言わせぬ仕方で、確信させられてしまう。

もっとも「僕」と「君」は曲中で離別してしまう。「僕」は「君」を失うことで、再び自己肯定のできない状態へと戻るかに思える。しかし、「君」を失っても、「僕」は「君」によって意味づけられた世界との絆を保ち続ける。

象徴的な意味において、「君」がこの世界を創造した、ということは、同時にこの世界のすべてが「君」によって望まれている、「君」によって肯定されている、ということだ。そして、「僕」もまたその世界の一部に属している。だからこそ、「僕」は「君」との交際を断たれたとしても、「君」に望まれて存在している、と考えることができる。「息を止めると心があったよ/そこを開くと君がいたんだよ/左心房に君がいるなら問題はない/ない/ないよね」と語る「僕」は、自分の「左心房」さえもが、「君」によって肯定されたものであるかのように感じているのだ。こうした作詞には野田の辣腕が発揮されているといえる。

承認への渇望

「君」が世界を意味づけ、その世界に「僕」も所属し、そして「僕」と「君」が愛し合うことによって、「僕」はこの世界を、そして「僕」自身をも愛することができる。RADWIMPSの描く救済にはそうした構造が反復している。そしてそれは、“愛”と呼ぶよりは、“承認”と呼ばれるべきものであるようにも思う。たとえば、『前前前世』はそう解釈しなければ読み解くことができない。

『有心論』とは異なり、この楽曲で「君」が神格化されることはない。しかし、「君の前前前世から僕は/君を探し始めたよ/そのぶっきちょな笑い方を目掛けてやってきたんだよ/君が全全全部なくなって散り散りになったって/もう迷わないまた一から探し始めるさ/むしろゼロからまた宇宙を始めてみようか」という印象的なフレーズには、「君」と世界の関係をめぐる野田の思想が色濃く反映されている。

この曲において、「僕」は、「僕」と「君」が生まれてくるずっと前から、「君」と出会うことを目指してきた。驚くべきなのは、その時間の長さである。「僕」が「君」との出会いを求め始めたのは、「遥か昔から」であり、その出会いは「銀河何個分かの果て」に実現された。すなわち、この地球が誕生する前から、この銀河が誕生する前から、この世界は「僕」と「君」の出会いに向けて歴史を歩んできた。「僕」にとって「君」との出会いは、そうとしか思えないような衝撃を体験させるものだった、ということだ。

そして『有心論』と同様に「僕」は、たとえ「君」と現世において離別したとしても、「君」との絆を確保し続けている。この宇宙が、「僕」と「君」の存在に関わらず、二人の出会いのために用意された世界である以上、「僕」は「もう迷わない」。この世界のすべてが、「僕」と「君」の出会いによって意味づけられているからである。

『有心論』と『前前前世』は同じ構造を持っている。それは、「僕」がこの世界に存在する理由が「君」によって“承認”され、それによって、世界と自分自身の相対性への不安を克服する物語である、ということだ。「僕」は「君」から“承認”されることによって、「どうとでもとれる世界」のなかに、自分がそこに存在する理由を見出そうとするのだ。

RADWIMPSの世界観の中心にあるのは、そうした広い意味での“承認”への渇望である。それは言い換えるなら、自分がそこに居ていい場所、自分がそこに居ることを誰かが必要としていて、その理由が決して疑いえないような、ほとんど奇跡のような場所への渇望でに他ならないのだ。

「君と僕」から「国と僕ら」へ

これまでRADWIMPSの世界観を概観してきた。その上で、改めて『HINOMARU』を聴いてみよう。

まず目につくのは、この曲には「君」が出てこない、ということだ。その代わりに出てくるのは「あなた」である。もっとも、この「あなた」は「帰るべき」場所であると語られている。恐らくそれは「御霊」であり、あるいは、「歴史」を指しているのだろう。

同時に、そうした歴史的なものが身体の内側で感じられている点も特徴的だ。「高鳴る血潮」、「胸に優しき母の声」、「背中に強き父の教え」など、歴史的なものは思想としてではなく、自分自身と不可分な体の一部として描かれている。

最後に、もっとも違和感を催させるのは、「僕ら」という一人称複数形の表現である。この曲はもはや世界の相対性に苦しむ孤独な「僕」の叫びではない。むしろ、同じ考えを共有する人間たちの声である。そこには、個性も、多様性もない。

これらのすべてが従来のRADWIMSの世界観を逸脱している。確かにこれまでも彼らの楽曲には身体の比喩が現れてきたが、それはあくまでも「君」の存在を感じさせるものとして、描かれていた。しかし、この曲に「君」はもういない。かつて、「君」によって意味づけられていた世界は、今では「歴史」によって意味づけられている。それはつまり、「僕」が承認を得る帰属先として、「君」ではなく「国」を選んだ、ということだ。だからこそ、「僕」はもう一人ではなく、その歴史を共有する無数の人間の一人として、「僕ら」として生きることになる。

そのように見ていくと、かつて、「君」が担っていた役割のすべてを、『HINOMARU』においては「国」が、あるいは「歴史」が代替しているかのように見える。もはやそこに、世間の自己欺瞞を鋭く喝破するかつての野田の洞察力を読み取ることはできない。

ナショナリズムと承認の問題

RADWIMPSがこれまで描き続けてきた世界観と比較するとき、『HINOMARU』が特異な楽曲であることは疑いえない。そしてそれは、彼らの世界観を徹底させたものでもなければ、その新境地を開拓するものでもなく、むしろその世界観を覆するようなものである。

視点を変えてみよう。私たちは『HINOMARU』から何を学ぶことができるのだろうか。恐らくそれは、ナショナリズムの根底には世界への不安が息づいており、あるいは、承認の欠落が潜んでいる、ということだ。そして、この楽曲を批判的に評するとき、私たちが直面するのは、そうした承認の問題に対して私たちがどんな代替案を持っているのか、という問いである。この問から目を背け、『HINOMARU』を単なる「愛国ソング」として批判するだけでは、およそ誠実な批評足りえないのではないか。

いずれにせよ、RADWIPSは単純ではない。彼らが作り上げてきた世界観は、本稿の解釈を軽々と溢れ出るほどに、圧倒的に多様である。そしてその一曲一曲が、「明日を呪う人間不信者」であった数多のリスナーを救い、励まし、勇気づけてきた。『HINOMARU』はRADWIMPSがもつ様々な可能性の一つに過ぎない。むしろ私たちには、彼らがこれまで提示してきた、あるいは、これから提示していく、別の可能性に期待することも許されているはずである。

ToyaHiroshi
ToyaHiroshi

大阪大学大学院医学系研究科 特任研究員。哲学・倫理学を研究しつつ、ポピュラーミュージックを中心としたカルチャーにも関心をもつ。著書に『Jポップで考える哲学-自分を問い直すための15曲』(講談社)/2016年)、『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版/2018年)。